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生きている人と一緒に生きていたい

決してホラー映画の見過ぎなどではない。むしろホラー映画は見たことがない。

生きている人と一緒に生きていたい。

生きている人という変な言い回しをするのは、何のひねりもない。それが一番よく体現できているから、ただそれだけの理由だ。

生きている人とは

自分が「生きている人」と呼びたい人の特徴はいくつかある。その中でもいくつか抜粋して、考えを深めてみたい。

◆自力で考えることを諦めない人

◆自分らしさを強みに変えられる人

◆考えを言動に表せる人

◆軸をもっている人

◆似た尺度をもつ人を大切にする人

一体何様だ、と思う。自覚はある。
しかし、こんな言い方に尽きるし、遠回しすぎる表現はこのnoteの場ではしたくない。赤裸々に、自由に書いていくだけだから。

きっと言われれば、ああそれも大きな特徴だと後付けする特徴もたくさんありそうだ。

◆自力で考えることを諦めない人

生き方でも勉強でも仕事でも同じことが言えそうだ。何事においても、自力で考える力というのは本当に大切だと思う。
その力がなければ、人から言われたものを受け取ったままでしか行動できない。

受け取った知識を単純に実行するのは、ロボットでもできると思う。
プログラミングさえ上手く機能されていれば、フローに沿って事を進めるだけだ。

もちろんその「事を進める」ことがそう簡単にいかないこともある。
もし自力で考える力がなければ、行き詰まった時は周りの助けを待つばかりだ。応えてくれる人がいればなんとか乗り切れるが、誰もいなければ事は上手くは進まない。

そうなると、自力で考えて、受け取った知識の本質を捉える力は必須だ。本質を捉え、意味を理解し、「既知のあのケースに似ている」、「既知のあの知識と繋がりがある」と気付くことができればなお良いと思う。

もちろん、常にそれを実行するのは難しい。時には思考を辞めたくなる時もある。でも、自力で考える力は、一度その姿勢を完全に失えば、あっという間に退化してしまう。

自力で考えることを諦めることが日常になった途端、ある意味「人任せ」な態度が染み付いてしまうのかもしれない。「これ以上は分からないから、あとはよろしく」と。そして、誰かが助けてくれた後も変われないのかもしれない。

◆自分らしさを強みに変えられる人

短所を長所として認識できて、さらにそれを自信に繋げるということは難しい。
「人前で喋れないとか、言葉が出ないとかいう短所なんて、どうやってもポジティブ変換ができない」と思っていたし、今も自分で少しそう思う時がある。

有り難いことに、私は人との出会いの中でそれをなんとか乗り越えつつもある。

考えが人より深いだけ。それをちょっとだけ浅くして、その分スピードに回せば大丈夫。考えが深いのは強みだから、あまり気にすることもない。

そんな風に捉えられることが多くなった。

「ポジティブに生きた方がいい」とか、そういう風潮というか、前提というか、なんとなく世間一般に良しとされているものが多方面でたくさんある。
それに賛同する時もあるし、そうでない時もある。

その「世間一般に良しとされているもの」になろうとして自分の性格や考え方を変えたくもないのに変えてしまったら、逆に生きづらいような気がする。周りには馴致しても、自分の中での葛藤に苦しむことになる。

個人的には自分の中での葛藤ほど苦しいものはないと思う。自分が思う私で在りたいというのが基本的な考えだ。

だからこそ自分らしさは強みとして、誇りと共にもっていたい。

◆考えを言動に移せる人

頭の中だけであれこれ考えて終わるのではなく、それを実行する人には信頼が生まれやすい。当たり前のことのようだが、実際にやるとなると難しい。

言うは易く行うは難し、というやつだ。

その分、考えに基づいてアクションを起こせる人を本当に尊敬する。

この考えに基づいてこの行動を起こした、という筋の通った動機を聞くと自分も背筋を正されるようだ。
一番最初に触れた「自力で考える」というのと少し似ている気もする。

私もよくやりがちだが、「あのとき実はこう思っていた」という事後報告ではどうしようもない。
言うべきことは言って、自分がどういう人間であるかを示すためにはそれを言動で示さないといけない。アウトプットせずとも人には伝わっているものだ、なんて最初から信じ込むのはちょっと危険な気がするし、後悔のタネにもなってしまいそうだ。

◆軸をもっている人

軸というのはそれぞれの人がもっている芯のようなもので、その人なりの信条、信念だ。
その軸をもつことで、自他共に「自分はこういう人間だ」といい意味で意識できるようになる。

軸をもっていれば、どんな困難な状況に置かれても自分を信じることができるような気がする。

最後に信じられるのは自分だけという言葉がある。
最後に信じられる自分という存在に軸がなくて、どこかふわふわとしていたら、信じられるものも信じられなくなってしまう。

何か一つ小さなこと、これだけはどんな状況になっても大切にしていたいと思えるような自分の価値観をもっていると、それは軸ばかりでなく、心の拠り所にもなり得るように感じる。

何かに行き詰まったり、自分の間違いを反省したりするときにも、その軸に立ち戻って考えると、「軸から離れすぎていたな」とか「この時こうすればよかったんだな」とか、意外とすぐに気付けるものだ。もちろん、いつもそうとは限らないが。

そう考えてみると、この軸というのはアイデンティティに近いものがあるとも思う。

◆似た尺度をもつ人を大切にする人

尺度というのは価値観であり、歴史であり、個性であり。その人がそれまで生きてきた中で作り上げてきた一つのスケールだ。

ある人は自分を全く知らない土地に置くことに何も抵抗がなく、人脈も簡単に広げてしまうが、ある人はそれが怖くて何もできない。
ある人は「終わり良ければすべて良し」主義だが、ある人は全く逆で、過程に価値を見出す主義。

それらの感受性の違いを認識するのがまず大切で、なおかつ、自分と似た尺度をもつ人を大事にすることが大切だと思う。
なぜなら、全く同じ尺度で生きている人はいないし、「これって自分だけ?」と思っていたのがそうでないと分かった時の安心感は想像をはるかに凌ぎ、さらなるプラスの感情をもたらしてくれるからだ。

色んな面で分かり合えると思える人が身近にいることは本当に恵まれている。
そんな人と出会えたことに素直に感謝できる人は、きっと自分の尺度も大切にできている人だと思う。

生きている人と共に生きる

上に挙げたような特徴を全部兼ね備えたような人はいない。

でも、生きている人と一緒に生きていることで、自分自身がそれを意識して生きることができる。偉そうに色々語ってしまったが、全部、自分の至らない未熟な部分をチクチクと刺してきたようなものだ(実際書いていて心が痛い…)。

そして、私の人生を一番近くで見ていて、最初から最後まで見届けるのは自分だから、自分は生きている人でありたい。

私の一番傍にいる人がもしも生きている人でなかったら、自分は腐ってしまう。もちろんその逆もだ。

だから、生きている人と一緒に生きていたい。

私も、自分も。

自身を取り巻くそれ以外の人も生きている人であったなら、きっと自分らしく生きられるような気がする。

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(今度また別の記事でも触れたいと思っていますが、今回の記事は特に「自分」「私」を意識して使い分けて書きました。
人に見せる、人と話している時が「私」で、「私」の中にいるのが「自分」。書いていてもちょっと混乱。あまり大差はないものの…敢えて私と書いたり自分と書いたりしていました、ということで、一応。)