日曜日、いのちは考える。

ここ最近の日曜日はいつもセンチメンタルだ。

毎週何かがあるというわけでもなければ、毎週何もないというわけでもない。ただ共通項が「日曜日」であるだけだが、定期的に綴られる言葉はセンチメンタルだ。

今週も例外ではなく…と言いたいところだが、これはセンチメンタルでありつつも、純粋な淋しさの方が近いのかもしれない。

率直に書くと、最近何のために生きているのかと思い始めて迷宮入りしてしまう。
うまく立ち行かぬ社会で気を削ぐ発言を聞くたびに、スマホに目を奪われながら街をゆく人を見るたびに、ベビーカーの中で眠る小さな子どもを見るたびに、ふっと魂が抜けたようになってしまう。
今日も景色の奥に入道雲が居座っているのを見ただけでため息をついてふらふらと意識が彷徨ってしまった。


私がたいそうな人間ではないのは昔から変わらない事実で、それでも世界のパーツの一つであることもまた事実で、そして何よりそのたいそうではないパーツは紛れもない自分自身であって。

どうやって生きるも何のために生きるも自分次第なのだけれど、開けたところへ行くとそんな私の考えは大仰な気がしてイタく見える。「じゃあ自分で考えろよ」って、周りから返ってくる言葉は分かりきっているだけに、孤独だ。
(今はさらけ出せるものを勢いに任せてギリギリさらけ出している。明日になったら恥と当惑で溺れる覚悟だ。)

社会や世界に何かを遺したいわけでもなく何者かになりたいわけでもなく、ただ小さな一人として生きていたくて。

いや、何かを遺したからといって、何者かになったからといって、その人は所詮ひとりの人間であることには変わりはないのだけれど。

私は、いつ消えるか分からないこの命で、何をしたいんだろう?

それを考えるたびに、なぜか涙が止まらなくなってしまう。

命のあるうちにしたいことを果たせなかったなら、きっと悔しいと感じるのだろう。
だから、「もし今日が人生最後の日だとしたら、明日死ぬことは悔しくないか?」という"究極的な問い"を自分に投げかけている。

誰だってその問いに毎日「悔しくない!」と答えるのは難しいはずだ。モヤモヤしたまま眠りにつく日だってきっとある、いや、そちらの方が多いのかもしれない。生きていれば毎日がいいことだらけなんて、とても言い切れない。

私もまた、その問いに固まってしまうことが多い。

幸せなままでは終われないな、この命。

そうは思うが、ではなぜ幸せなままでは終われないのか、どうやったら幸せに終われるのか、と考え始めた途端にまるで他人事のように捉えてしまう。

この感覚は決して初めてではない。
4年、5年、いやもっとか。
あの頃の無性な淋しさに似ている。つまりは、その頃からあまり変わっていない、ということも部分的には言えるかもしれない。

今も若輩者ではあるが、もっと幼かったあの頃、この次に考えたのは「生涯を幸せに終わらせることに執着している自分」への嫌悪だったことをよく覚えている。

まだまだ狭いが、幾分か世界が見えるようになり、そして非常事態に直面して物事の捉え方が少し変わった今、それは嫌悪というよりも呆れに近い。

でも、自分の幸せくらい自分で願ったっていいだろう、と小さな命は主張したがっている。
ついでに、残念ながら人生にまで「結果オーライ」的な価値観を持ち込むことはできないので、終わりだけではなくできれば途中経過も…、全てとは言わないけれど…といった具合に中途半端な遠慮の影に高い望みをチラつかせている。

話は少し逸れてしまったような気もするが、とにかく淋しくて、行く先の分からないバスにひとりで乗っているような気分がする。

"究極的な問い"の最初に付けられた「もし」は、過ぎた過去に対してああだこうだと語るための言葉なんかではなくて、将来起こりうる可能性があるということを表す言葉なのに、やはり他人事なので何も変わらないらしい。まあ確かに、バスに乗っているだけなら、自らハンドルは握れないし、目的地も選べないか。

(…人はいつかの将来のある日の"明日"に死ぬのだから、「将来起こりうる」というよりは将来絶対に起こる、の方が正しいのか?)


ともかく、幸せについて考えているということは、きっと今を幸せに感じていないのだろうし、命の終わりについて考えているということは、きっと今生きていることの証拠なのだろう。



命はそんなことを考えて、布団に潜る。