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社会に何かを遺したいという希望

明日、その時が訪れるかもしれないけれど。

私たちはとかく、自分が死んだ後に何を遺せるかと考えがちである。

幼いうちはなかなか考えないことだと思うが、生きていくうちに身近な誰かの死と向き合う機会、あるいは自分自身が死と隣り合わせとなる経験が増えてきて、それと同時に「社会の一員として」物事を考えることも多くなって、死後のことを考えるようになる。

巷では終活なんていう言葉を聞く機会も増えてきて。今回その話はちょっと隣に置いておくこととするけれど、「自分の死後をより身近に考える」という、ある意味不思議な風潮がある(終活は肯定している)。

私が今日なんとなく書きたいなあと思ったのは、自分が何を社会に遺せるかと考えることだ。

「サッカー選手になりたい」、「お花屋さんになりたい」、「パン屋さんになりたい」…。
小さい頃思い描いた夢、あるいはそれを言わされた機会が誰しもあるかと思う。私も大して好きでもないのに将来そうなりたいと言ったことがあった…かもしれない。

それがいつの間にか変わっていったり、具体性を備えていったりして、ある人はそれを叶え、ある人はそれを叶えないで死んでいく。

当の私はというと、最近ようやく自分の就きたい業種が決まってきたところである。

その職業に就いて何をしたいの?

そう聞かれると、まだあやふやな目標しか出てこない。
それで叱られて、しょんぼりすることもある。

別にいいじゃん、自分の人生なんだし、仕事に就いてから見つかる目標だってあるだろう。そんな不満もあるけれど、そういう時私はきまって「すみません、そうですね」と笑みを自身の顔に放り投げ、その場を後にする。
それでその後不満を垂れつつ、やっぱり後回しにしちゃ駄目だよなあ、叱ってくれるだけありがたいよなあ、と素直になって考え直す。

でも、どうにも、その先が進まない。

何者かになろうと努力するより、何者かになった後に何をするかを考えて行動する方が向いている。そう書いたのは10日前のことだ。

しかし残念なことに、私は「自分が社会に何かを遺せる」とは思わない。漠然と、かつ極端に言うなら、「偉大なリーダーになって、世界中のすべての人を笑顔にしたい」が叶うとは思えない。

ひょっとしたら、革命的なアイデアが頭の中にふと浮かんで、それがおそらく他分野の技術とのコラボレーションによって実行されて、社会の不特定多数が笑顔になることはあるかもしれない。その可能性がゼロであることを証明するものはない。

でも、「世界中のすべての人」を笑顔にする夢は、歴史上のどの人間にも叶わなかったことではなかったのか。

極端な話、そういうことだ。

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何の話がしたいんだっけ。

自分は社会に何かを遺せと言われることがどこか嫌いだ。

口で語るだけなら簡単だけれど実行に移すことがどれだけ難しいのか、私に命じるように言う立場の人間の方がよほど分かっているはずなのになあ、と思う。

自分のできないことの当てつけだという見方をしたくなるが、自分が悲しくなるのでこれはやめたい。自分のよくないところだ。

誰か大切な人にとっての大切な存在でいられたら私は満足で、正直、社会はその次。もちろん、モラルとか規範は守るのを前提としての話だ。

たとえばプライベートな話で、自分の大切な人に自分の生き方を見せることで何かプラスになるものを伝えることができたらそれ以上のことはない。
そういう話って多分、「特別努力しなくても、そこそこに生きて、愛情を大切にしていれば、誰かの何かにはなれる」という話で大概のことが片付くと思う(だから気軽でいいや、という話ではないが)。

それでもどこかで、世界中でなくても、近い範囲の人たちに何かいいものを遺したいと願うのは、人間としての欲望なのだろうか。
そういうパッションが誰の心にもあって、世の中を変えてきたのだろうか。
そう思ったら、そういう観点から自分のキャリアについて考える必要はある。夢は語ることで実現に近づくという言葉もあるし、それ自体は自分の身でも感じたことでもある。だから、無理だと思っても、もしそれが自分の本当のやりたいことであるならば語ってみるのも一つの手段なのかもしれない、とも思っている。


もしかしたら、明日、不慮の事故で、叶わなくなるかもしれないけれど。


タイムリミットがいつなのか分からないなら、生き急がないまでも、有限である時間は大切にすべきだし、語った夢が突如として奪われる可能性があることも覚悟しておかなくてはいけない。

だから、そんなちっちゃいことで落ち込んでたら、もったいないかもね。落ち込む時間も必要だけど、ね。