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何者かでありたいと願うのはやめにしよう

人は自分が「何者であるか」を問いたがり、そして「何者か」になりたがるものだと思っている。

承認欲求というものは、とかく厄介だ。

何者かでなければ、誰かから認められるような気もしないのはとてもよく分かる。
その誰かは自分であったり、周りの人であったり、属する組織であったり、多岐にわたる。

自分は世間知らずで小さな規模でしか話ができないし、考えも甘いと分かってはいるけれど、自分で自分を認め、他人からも認められることで、私たちは自分自身をようやく肯定するか否かの選択肢を手にするかもしれない、と思っている。



私も例外ではなく、承認欲求の強い人間だ。
特に、自己承認に対しては、人一倍敏感な人間だと思っている。

以前、中学時代に容姿端麗・頭脳明晰な同級生と自分とを比較して落ち込んでいたのに、その彼女の隣を離れることができなかったのが未だに謎だ、という記事を書いた。

その謎を解く手がかりが、この承認欲求にあるのではないか、と気がつき始めた。

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隣で並んでいることで、私は何者かであれるような気になっていたのだと思う。

それが、「〇〇に敵わないけれどいつも隣で勉強を頑張っている人」という認識であってもいい。
そんな認識でもいいから、何者かでありたがり、自分でもそれを認めたかったのだと思う。

見た目も冴えない。運動もできない。周りにいつも人が集まるような人気者でもない。

それじゃあいったい私はなんなんだろう?

何者かであることを自他共に認めるために、彼女の隣という場所に居座っていたのかもしれない。

当時の自分にとっては偉大だった彼女の隣。彼女とセットでいることで、比較され「劣」という札を貼られても、その札を貼られること自体に意味を見出していたのかもしれない、と推察する。

まして、あの当時である。勉強一点張りの、あの当時だ。
定期試験で全て90点台をとって当たり前、そこから落ちればある先生に冗談交じりに笑われたあの当時。
中学1年生の時から高校受験に向けてハイペースで毎日塾で勉強をしていた、あの当時。

確かにそれは、「勉強を頑張っている人」として認識されなかったら、自分が消えてしまいそうになる不安も、よく分かる。

誰かに認められたい。自分の努力だけでは認められない。
認められている人の隣にいることで認められるなら、たとえ「優」に手が届かなくても構わない。

(…それでいて「劣」に不服だったのだから、それは自業自得である。)

大げさにいえばきっとそんな感じだったのだろう。
なんだか悲しいなあ、と今では思う。

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全て「今思えば」の話になるのが悔しい気もするが、何者かになろうと努力するために盲目になる必要はないようにも思える。

何者かになって、認められて、自分で認めて、さてその先にあるのは一体何だろうか。

何者かになることで救われた気持ちにはなれる。多大な安心と、平穏が自分の心を包んでくれるのも、知っている。
誰かにとっての何者かになることで、その「誰か」の幸せに繋がることも知っている。

けれど、「何者かになろうと努力するために盲目になる」時、おそらく、何者かになって認められた後に還ってくる安心と平穏を得ることが目的になってしまう。

本当にそれが目的か?
安心と平穏を得て、そこから始めたいことがあったのではないか?

それを忘れてしまうような気がしている。


今だから言えることかもしれない。今苦しんでいる人、将来落ち込んだ時の自分がこれを見たら、鼻で笑うかもしれない。

「いや、その安心と平穏が得られないから、まずそれを得たいんだ」と。

でもだからこそ今のうちに書き留めておきたい。
そんな何かに盲目になるほど努力しなくても、少なくとも周りの誰かからは認められている、ということ。

Aという分野で認められなくたって、Bという分野で認められれば五つ星。
勉強で認められなくたって、それが強みだと豪語していたって、別に、数字や評価に表れないところで誰かに認められていれば五つ星。

「これで成果をあげなくちゃ」

そればかりに固執してしまうと、視野は狭くなって、そのうち、一番強大な力をもつ、かつ、難しい「自己肯定」ができなくなっていく。

「他人から認められたいのに認められない!」は努力と自分を置く環境次第で融通は多少利く。
でもその逆、「自分で自分を認められない!」は、周りの環境は関係なく、最終的に自分で素直に認められなければ永遠に満たされない

だから敢えて何者かになろうとしなくったって、心の落ち着く方へ、心の向かう方へと歩いていけば、何者かにはなれる。
焦って何か大切なものを見落としては本末転倒だ。

承認欲求のその先にあるものを見失わせてしまいがちな「何者かになりたい欲」。

つい目前のことばかりに傾注してしまう私。
「その先が大事、着地点が大事」と言いながらそれを簡単に忘れてしまう私。

経験を生かして、「何者かになりたい」と高らかに謳い願うのは、そろそろ控えてみてもいいような気がする。