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幸せを願うとき、不幸に思いを馳せている

私たちは性格も価値観も違えば歩き方も違うけれど、みんな心のどこかでは幸せに生きていたいと思っているし、悲しいことより楽しいことの方が多い方がいいと思っているし、自分が亡くなったあとには、できれば虚無以外の何かを遺したいと思っている。そんなふうに思う。

ハッピーエンドを、望んでいる。

けれど、ハッピーエンドが保証された人生などない。ましてその"エンド"までの道のりがどれほど多難であるかなど、直面するまで分からない。

どうしようもない絶望に陥り、自分の指先すらぼやけて見えない闇の中で、いつか、いつかと希望をもってその時を待ちわびたり、目に見えない何かに抗ってみたりする。
誰もがそうできるとも、それが正義だとも言わないけれど。

私にしては珍しく、現実から遠く離れた完全なる空想の話を思い浮かべてみる。
それは、ひとつの悲しみも苦しみもない、毎日が明るく爽やかな日々。

もしそんな人生が実現したなら、きっと私は、その人生を幸せとは感じないような気がする。

悲しみや苦しみのない日々とは、現実に生きている私からすれば明らかに幸せである。つらい別れも裏切りを見る悲しみもない。今の私にとっての悲しみや苦しみを全て取り去ってしまったら、残るのはただただ前向きで希望に満ち溢れた日々なのだ。

そして実際に時々望んでしまう。こんな悩み、こんなつらさ、全部なくなってしまえば楽なのにと。


それなのに、きっとそんな"理想的"な環境に身を置いてしまったら、理想は理想でなくなってしまう。これは紛れもない幸福ボケである。

豊かさだけで生きていたい。楽しいことだけして生きていたい。好きなことだけに囲まれて生きていたい。一生幸せで生きていたい。その他のことは、全部要らない。

一度そう願って、もし叶ってしまったら、もう後には戻れない。

豊かさを感じられるのは豊かでないときがあるからで、楽しさを感じられるのは楽しくない時間をも過ごしているからで、好きなことを好きだと感じられるのは嫌いなことがあるからで、幸せを感じるのは、不幸を知っているからだ。
そして、生きていたいと思うのは、いつか終わりがあることを知っているからだ。

豊さと貧しさ、楽しさと退屈さ、好き嫌い、幸福と不幸、生と死は、それぞれ共存している。

短い人生の中に、何をしても不幸に思える時期と、何をしても幸福に思える時期があった。

どちらの方が楽だったかと言うとそれは後者だ。何をしても幸せって、心の底から簡単に言える言葉ではない。

けれど、あの頃の私は簡単にそれを口にできるほど無敵だった。

はずだった。

何ヶ月か経った。自信をもって幸せと言えていた時期は、何年も前のことのように感じられる。
もっと言うなら、昔見た夢のように。

何をしても幸せにしか見えないという期間は、一生涯続かないならば私にとってはただの寂しさに過ぎなかった。もちろん、いい思い出ではある。

けれどこうして振り返ってみたら、それは思い出以上の何かを孕んでいることに気がついた。

そんなことを考えながら過ごしていたら、あれもこれもと目が回りそうで少し疲れてしまった。


私が描く幸せとは一体何なのだろうか?

物語で語られるハッピーエンドに抱く感情は、一体何なのだろうか?



幸せや期待が織り混ぜられるとき、きっとそこには不幸や寂しさも織り混ぜられているはずだ。
同様に、不幸や寂しさが織り混ぜられるとき、幸せや期待が織り混ぜられているはずだ。

何も新しいものが混ざらずただ均一になるだけの空回りなら、別になくなったって変わらない。