暇と退屈を大切にする
暇や退屈な状態というのは、どことなく、あまりよろしくないような気がします。なんとかしなきゃな〜と思ってしまうものでもあります。
けれど、「人生は暇つぶし」という言葉があるように、食べることにあまり困らない今の世の中では、食べるために仕事をしたり、必要なものを手に入れたりする以外の時間は、基本的に「暇」なんだと思います。
「暇」だと「退屈」に感じますし、「限りある人生」だと考えると何もしないのはもったいなく感じられるので、「趣味」とか「仕事」とか、そういうもので「暇」な時間を埋めている。
こんなことを考えるようになったのは、「暇と退屈の倫理学」という本を読んだからです。
この本で面白いと思ったのは、「暇」な時間を埋めるための「趣味」や「仕事」が、「本当にやりたいこと」なのかというと、実はそうではないという部分です。
例えば、CMを見て「買いたい」「食べたい」「やってみたい」と思うことがありますが、それは、元々「やりたい」と思ってなかったのに、企業に乗せられて「やりたい」と思うようになっただけ、という見方です。
また、友達のSNSの投稿を見て「自分もやりたい」と思うことがありますが、これも、元々「やりたい」と思ってなかったのに、「周りがやっているのに自分がやってないのは何かもったいない」と感じて「やらなきゃ」と思うようになっただけ、という見方もあります。
結局、自分の中にそれほど「やりたい」と思うことはなく、周りの手招きに反応して「やりたい」と思っているだけということです。
そもそも、そういうものなのかもしれません。ただ、あまり「暇」な時間を埋めることに執着しない方が良さそうだなとも思います。
例えば、「暇」な時間を「趣味」や「仕事」で埋めまくって来た人は、例えば老後、思うように動けなくなったときに、「暇」の重圧に耐えられなるかもしれません。「暇」であることが自然という基本的な認識がないと、「暇」であることが異常事態のように感じられて、苦しんでしまうかもしれません。
こんなことを書いていますが、だからと言って毎日何もしないわけではありません。それこそ、CMやSNSに欲望を掻き立てられて「やりたい」という気持ちが湧き起こり、行動に移すこともあると思います。けれど、それで「暇」を埋めればいいというものではない、ということも、頭の片隅に置いておきたいと思います。
最近本屋で、「暇」や「退屈」に関するニュートンの新書も見つけました。
ニュートンがどういうアプローチをしているのか面白そうなので、読んでみようと思います。