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【現代語訳】 徳川慶喜公伝 大政奉還 その4

渋沢栄一がまとめた「徳川慶喜公伝」の現代語訳にチャレンジするシリーズ。
第4弾をお届けします!

前提

・底本は、「東洋文庫107 徳川慶喜公伝4 渋沢栄一著 平凡社」です。
・徳川慶喜公伝は1巻〜4巻までありますが、大政奉還や鳥羽・伏見の戦いについて書かれている4巻を対象としています。
・その中でも、大政奉還〜鳥羽・伏見の戦いを経て東京に帰るまでの、第二十七章〜第三十二章まで(196ページ分)を現代語訳する予定です。
・歴史家でも何でもない素人が現代語訳しています。
・現代語訳をきっかけとして、より多くの人にこの本に興味を持ってもらい、叶うことなら平凡社または他の出版社から復刊されることを願っています。

前回までのあらすじ

薩摩藩と長州藩が同盟を組んで討幕の動きを見せ始める中、土佐藩では討幕に賛同する乾退助(板垣退助)が薩摩藩との間で同盟を結ぶ一方、坂本竜馬と後藤象二郎は、討幕はあくまでも最後の手段と考え、幕府から主体的に政権を朝廷に奉還させようとしていた。坂本竜馬は議会制の導入(公議政体論)をめざして「八策」を草案したが、脱藩の身であったため、身分ある後藤象二郎に伝え、彼から幕府に提案してもらおうと考えた。

後藤象二郎は、幕府に意見する前に薩摩藩と会談する。温和派の小松帯刀らの賛成を得るが、討幕派の西郷吉之助(西郷隆盛)と大久保一蔵(大久保利通)とは、「王政復古と議会制度の確立により新しい国の基礎を築く」という点では盟約を結ぶが、「幕府との平和的な解決」という点では合意を得られなかった。彼らは、土佐藩が討幕をめざすのかめざさないのか、国論が一致していないことを不審に思っていた。

後藤象二郎は、土佐藩の国論を定めて再び上京することを約束し、土佐に帰る。土佐藩の前藩主である山内容堂も現藩主の山内豊範も公議政体論を受け入れ、土佐藩の国論が定まったが、西郷や大久保との会談から約3ヶ月が経っており、それを待ちあぐねていた薩摩藩は態度を一変させた。

その背景には、幕府を廃して皇室の再興をめざす岩倉友山(岩倉具視)の動きが関係していた。彼は、新しい国作りをめざす土佐藩の中岡慎太郎および坂本竜馬と面会しており、中岡から三条元中納言(三条実美)との和解を勧められていた。その後、三条元中納言と和解した岩倉は、皇室の再興をめざして公卿と議論した後、薩摩藩の島津大隈守に伝えた。島津大隈守は、土佐藩の国論に関係なく挙国一致して討幕計画に尽くそうと誓う。これを受けて小松帯刀は、芸州藩の辻将曹を説得。芸州藩も薩長同盟に加わることとなった。

その頃、幕府から長州藩に対して、家老を一人大阪に出すよう命令があった。この機に乗じて長州藩は、大阪に向かう家老の毛利大膳に兵を従わせ、薩摩藩と行動を共にすることを決めた。一方、薩摩藩の大久保一蔵は長州に向かい、木戸準一郎(木戸孝允)らと会談して挙兵の約束を取り付ける。薩摩藩は京都で挙兵して京都御所を守護しよう考えており、そのために長州藩の援助が必要であると伝えたのだった。大久保と木戸は、挙兵に際して天皇をどこへ移すかなどを話し合い、作戦を練る。薩摩と長州は、それぞれ兵を船に乗せ、三田尻(山口県周防市)で合流し、御手洗(広島県呉市)で芸州藩の船と合流してから東へ向かうこととなった。

このような動きの中、薩摩藩は、一度土佐藩と結んだ盟約を放棄するが、土佐藩が公議政体論を幕府に建白すること自体は止めなかった。一方、薩長と同盟を組んでいた芸州藩で新たな動きが起こる。芸州藩は薩長との盟約により討幕の兵を挙げることになっていたが、土佐藩の後藤象二郎が芸州藩の辻将曹(京都在住の重臣)を説得したことにより、元々平和的な解決を望んでいた辻将曹は意見を変え、本国の挙兵を中止させる。ここで芸州藩の意見は、辻将曹と藩の間で二つに分かれるような状況になった。

第二十七章 政権奉還 その4

後藤象二郎はこれより前に、薩摩藩や芸州藩と交渉する傍ら、幕府にも説明しようとしていた。土佐に帰る前、幕府の若年寄りの永井玄蕃頭(永井尚志)に会い、建白のための下準備をしたが、再び上京した後も会合を重ね、政権返上が急務であることを語った。永井玄蕃頭はそれを許可し、9月20日になって速やかに建白書を提出すべきことを後藤象二郎に勧めた。思うに、幕府でも伊賀守と永井玄蕃頭らが謀議した結果、土佐藩に対してその建議を申し述べることについて既に内約がととのっていたのであろう。

このような折りに薩摩藩が建白書提出の抗議を撤回したので、後藤象二郎は10月3日に土佐藩士の神山左多衛(神山群廉)と共に、松山藩の藩主である板倉伊賀守(板倉勝静)に謁見して、元土佐藩主山内容堂の建白書を提出した。その内容は「天下憂国の士は口を閉ざしてあえてこのようなことは言いませんが、朝廷・幕府・公卿・諸大名はお互いに考えが異なっているようです。そもそも天下の事態に関してこのようになっているのは、果たして誰の罪でしょうか。けれども、いたずらに過ぎ去ったことの是非や正邪を言い立てて避難することは何の益もありません。ただ、物事の道理をはっきりと見通して英断することによって、万民と共に心を一つにして協力し、公明正大の道理に従い、万世にわたって恥じることなく、また、万国に対して恥じることのない国の方針を定めるだけです。以前、上京した際にこの意見を申し立てようとしましたが、諸問題があり、それに加えて以前に罹った病気が再発したため、土佐へ帰国することになったのでした。その後も日常生活が思うようにならない状態で、病気が治らず上京が難しかったため、家臣を通して幾つかの考えを申し上げたいと思います。今こそ公明正大の道理に則り、天下の万民と共に皇国数百年の国体を一変し、誠実な心で万国と接し、王政復古のを実現する大きな機会だと考えます。別紙もよくご覧いただくことを願います」というものだった。その別紙は、寺村左膳、後藤象二郎、福岡藤次、神山左多衛が連名で署名したものである。その内容は「天下の形勢と、昔から今までの得失を考慮し、謹んで申し上げます。皇国の復興を実現するならば、国体を定め、制度を一新し、王政復古は万国・万世に恥じないものにすることを本来の主旨とすべきです。邪な者を排除し、良い者を採用して思いやりのある政治をし、朝廷・幕府・諸大名は等しくこの基本に注意することが現在の急務です。前月、四藩が上京して建言したことがありましたが、私が病症のため帰国して以来、さらに念入りに熟慮しました。この容易ではない事態に際して、安危が決まるのは今だと思い、速やかに上京して建言したいと思いました。しかし、病がまだ治癒しないので、やむをえず家臣を通して申し上げます。天下の政治を議定する全ての権利は朝廷にあり、皇国の制度、法則、一切の事柄は、必ず京都の議政所から出すようにすべきです。議政所は上下を分け、議事官については、上は公卿から下は陪臣や庶民に至るまで、正しく善良な者を選出すべきです。学校を都会の地に設け、年長者と年少者の間に順序を分け、学術と技芸を教え導くべきです。兵庫港において、新たに朝廷の大臣と諸藩とがお互いに議論し、道理が明確な新しい条約を結び、商法に確実に則り、外様大名の信義を失わないようにすることが肝要です。海陸の軍備は至急必要です。軍局を京都と摂津の間に築造し、朝廷を守護する新兵を置き、世界に比類のない兵にしなければなりません。昔から政治と刑罰は武士の家系が担ってきましたが、洋艦(黒船)が渡来してきてから、天下は入り乱れ、国家が多難な状況となり、このような時に政権が揺れ動くのは自然のことです。今日に至っては、昔の悪い習慣を改新し、枝葉の議論や細かい条理に止まることなく、大きな根底の部分を打ち建てることが肝要です。朝廷の制度や法則など、従来の法律や条例はありますが、今の時勢に照らし合わせると当然ではないものもあります。その悪い風習を取り除き、一新あるいは改革して、地球上に独立する国家の基礎を建てるべきです。議事に関わる官僚は、私心を捨て去り、公平に基づいて、術策を設けず、正直であることを第一とし、過去の是非や正・不正を問わず、古いものを全て新しくして、今後のことを見る必要があります。議論をするだけで実効が少ないというような弊害があってはなりません。以上の条目は、恐らくは現在の急務であり、内外のさまざまなことの中でも主要なことであり、これを捨てて他のことをすべきではありません。職務を担う者は、成功か失敗か、利発か愚鈍かなどを顧みずに、心を一つにして協力し、何世代にわたっても貫徹すべきです。従来の事件を取り上げて避難・抗論し、朝廷・幕府・諸大名が互いに争うようなことはあってはいけません。これは私の望みであり、道理に暗く才能のないことを顧みず、高慢なことを申し上げます。これらのことをお聴き捨てになっては、天下のために思い残すことが少なくありません。願わくは、寛大で慈悲深いお心をもって、私の家臣に御質問いただきますようお願い申し上げます」というものだった。

この建言を読む人は、土佐藩と薩長二藩との意見の差異を察するかもしれない。薩長の二藩は戦を挑んで幕府を倒そうとし、土佐藩は円満に武門政治を解除しようとしている。「従来の事件を取り上げて避難・抗論し、朝廷・幕府・諸大名が互いに争うようなことがあってはいけません。」と言っているのは、過去における幕府の失政を咎めずに、将来の国運を進めようとしているのである。薩長の二藩はそうではなく、過去の罪を数え、討幕の名義を作ろうとしていた。めざす結果は同じであっても、手段は全く相反していた。三藩の地位が異なるからだろうか。

後藤象二郎は、この書を提出するとき、伊賀守に「今天下の形勢が切迫しているので、速やかに採用の有無を教えてください」と言ったが、伊賀守は「建白の趣旨はいかにももっともではあるが、急に採用とは言えない」と答えた。寺村左膳と神山左多衛は、10月4日に二条摂政(二条斉敬)の屋敷に行って建白の次第を申し上げ、併せて副本を提示した。二条摂政は「いずれ国事御掛(国事を議論するために設けられた役職)にも相談しよう。また、幕府からも尋ねられるだろうから、熟考しておこう」と言った。その日、後藤象二郎と寺村左膳たちは、会津藩の重役である外島幾兵衛(外島義直)や上田伝次たちを招いて建白の顛末を告げ「貴藩とは日頃から懇意にさせてもらっているので、あえて腹の内を明かそう。意見があるなら承りたい」と言った。外島幾兵衛たちは屋敷に帰って松平肥後守(松平容保)に謁見し「土佐藩の建議を根底から論破するような論があるならばそれはそれで良いですが、いたずらに異議を唱えて土佐藩の気勢を損じるようなことがあれば、第二の薩摩を生じさせてしまいます」と述べた。その後会津藩で議論したが、一つにまとまらなかった。

坂本竜馬は、政権奉還および公議政体の持論を実行するためには戦をする覚悟を持っていた。「これが実現しなければ、仏教や耶蘇教(キリスト教)を利用して人々の心を煽動し、あくまでも幕府を倒す。事が起きれば、長崎の運上所(税関)に所蔵している十万両余りを奪って軍資とする」と言い、オランダの商人からライフル銃を1300挺購入するなど、もっぱら事が起こった後の事態を考慮していた。こうして、長崎のイギリス人殺害事件もほぼ落着すると、この後は土佐藩を監督して励まし、京都や大阪の形成も探ろうと、9月18日に数名の海援隊の隊士を率いて長崎を出発し、その道すがら下関に寄港した。それは、薩摩藩の大久保一蔵が薩長の攻守同盟を結んで山口を去った翌日(9月20日)だった。坂本竜馬は、形勢が容易でないことを知り、海援隊の隊士である陸奥陽之助(陸奥宗光)たちに銃200挺を分け与えて京都に急行させ、自らは10月初旬に土佐を過ぎ「この上は戦の覚悟を決め、薩長の勢力を利用して国の運営方針を定めることが、土佐藩の今の任務だ」と告げ、小銃を渡して藩の重役を激励し、後藤象二郎の跡を追って10月10日に上京した。

この時、京都にいる土佐藩士は二つの派閥に分かれていた。後藤象二郎や福岡藤次らはもっぱら建白に重きを置いていて、その実行を幕府に迫っていた。中岡慎太郎は陸援隊を率いて、薩長と通じ、挙兵の準備を怠らなかった。坂本竜馬が京にやってくると、両派の間に立って融和させようと骨を折り、建白は建白の方向に進め、挙兵は挙兵の方向に進め、お互いが影響し合って情勢の展開の助けとなるようにした。考えてみるに、坂本竜馬は、幕府がもし政権奉還を拒めば、直ちに薩長と連携して討幕の軍隊を起こそうとしていた。また、幕府が平和に政権を奉還したとしても、幕府が敵視している薩長と協力して公議政体に力を尽くすことは難しく、その衝突は避けられないと信じていた。その考えを中岡慎太郎に説明したが、それはあたかも薩長の同志と交渉することに似ていた。坂本竜馬は、幕府が政権を奉還するかどうかに関わらず、一度は兵を用いようとしており、この点において後藤象二郎の意見とは大差があった。そうであったからこそ、坂本竜馬は後藤象二郎を励まして「江戸の実権が京都に移れば、将軍職をそのままにしておいたとしても、名があって実がなければ恐るに足りない。この所をしっかりと注目しておいてほしい。もし、江戸から京都に実権が移らないとなれば、その議論の中で何か後日の証とすべきものを捕らえておき、破談とならないうちに本国から兵を徴集する。自分は帰国して容堂公の決心を促すのだ」と誘いかけた。

土佐藩の建白の数日後、芸州藩藩主の松平安芸守(浅野茂長)も、芸州藩藩士の辻将曹を通して建白書を板倉伊賀守に提出させた。その要点は「兵庫の開港と山口の処置の件については、既に布告がされていて今更建議すべきことはないけれども、再三申し上げているように、一日も早く判断して許可いただけるよう、切望しています。よくよく天下の大勢を考えると、これは正しく、これは間違っているなど、世間の人心は行き違いになり、救うことができない事態に逼迫しています。その原因はわずかな言葉では言い尽くせませんが、結局、大義名分が明らかではなく、国体が崩れたことによって起こったものです。いたずらに瑣末なことだけに注目して大本の反省がなければ、木に登って魚を取ろうとするように、何事も徒労に終わり、時の運が挽回する機会はないでしょう。そもそも我が国は万国の中でもひときわ優れており、万世一系で、君臣の大義がおごそかに存在しています。この自然の道理に基づいて大義を明らかにし、名分を正し、政治を朝廷に帰し、公平であり、天下の諸大名と共に皇居において全ての物事について主君を補佐し、善いことを勧めて悪いことを諌めるようにするのです。少しでも命令を偽ったり、遮ったりする疑いなど持たれないように、行動や発言を振り返られるような形跡を残すべきです。ここに至ってなお、昔の轍を踏むようでは、内外に不都合な雰囲気を生み出してしまい、ついに天に届くほどの災難を引き起こして、大きな功績のある祖先のご意志も泡のように滅亡するのではないかと胸が痛みます。何卒熟慮いただき、ご決断下さることをお願いいたします」というものだった。辻将曹は、既に土佐藩の論に傾いてその態度を変えていたため、このように安芸守に勧め出たのであった。

(つづく)

進捗

・「第二十七章 政権奉還」〜「第三十二章 東帰恭順」までの6章を現代語訳する予定で、現在、第二十七章。
・第二十七章が全部で48ページあるうち、約20ページを現代語訳済み。

今回は、土佐藩と芸州藩がそれぞれ、松山藩の藩主である板倉伊賀守に政権奉還の決断を願い出る、という内容でした。さあどうする伊賀守。
坂本竜馬の動きについても、途中で述べられていましたね。
彼は、幕府が平和的に政権を返すならそれで良いけれども、拒むなら武力を持って幕府を倒すしかないという考えを持っていました。そのため、穏和派と討幕派の両方と繋がり、上手くやろうとしていたようです。しかしこれは、穏和派から見れば「討幕派と通じる信用ならないやつ」であり、討幕派から見ても「穏和派と通じる信用ならないやつ」と映る可能性があります。このあたりの不信感が、後の暗殺につながったのではないかと想像します。

大政奉還の現代語訳、まだ残り半分ほど残っているので引き続き頑張ります。
それでは次回もお楽しみに!

最後まで読んでいただいて、ありがとうございます!