ある人の自死から。
同い年のとあるバイク乗りさんの、昨年十月の自死のことをたまに思い出す。ADHDと診断されたそのひとは、最後に日本一周のバイク旅をしてから亡くなった。Twitterは他者のこんな生と死を見ることができてしまう....
ほかの何からも与えられたことのない衝撃があった。
たまにふとこのひとの気持ちを想像してみては息苦しくなるけれど、これを書いてる今はいたって落ち着いている。一般的に暗く捉えられがちな自死の話をできるだけフラットに考えたい。
自ら人生を終わらせる時場所方法を決めて、最後は旅する夢を成し遂げる。
その旅のあいだ、どんなふうに世界をみていたんだろう。
死ぬときまでの生きる理由は旅だったが、旅で出会った数多の人たちや景色のなかに、先を生き続ける理由を見出すことはなかった。死ぬことを決めた人がどうしてあんなにも清々しい笑顔を自ら写真に残せるんだろう。なんて清くてきれいで尊い生き様だったんだろう。
自分で死んでゆく他者がいるということ。
生きのこるひとはそれをどう捉えるか。この世界の仕組みとして、死にたいひと・困窮するひとを放っておいても人間は咎めを受けない。いつか自分に返ってくるなんてことはだいたい運次第。何か神たるものがいてお前の行いは悪だ善だと言うわけじゃない。人間の創作物にいくら絶対的な神々しい存在が描かれていようが、現実にはそんなものは一切ない。いくら賞賛されようが法に裁かれようが社会的に消されようが、人間が決めたものの範囲で解釈されるに過ぎない。
自分のためひとのためだろうが良かれと思ってやっていることはみな自己満足でしかないのだから、どう生きたってその瞬間は自分の生を生きることができる。社会から離れて荒野を一人旅するひとは他者の何にも関係しない、なんてことははたしてあるのか本当のところは自分には分からない。生きてるこの瞬間と同時に自ら生を終える他者の死に、自分はどんな繋がりがある?
死にたくて死んでいった人の気持ちが少し分かるような気がする。ひとつの違いを障害たらしめるもの、人間の上手く行かなさ。自分という存在の苦しさ。親密な他者でも公共の他者でも、旅という人間でない第三者でも、救うことができない。人間の救いようのなさといったらどうしようもない。残酷だし美しい世界、この世界はそこまで苦しんでまでして頑張って生きる価値はない。
特別な誰かに愛されたいとかいつか誰かに伝わってほしいとか、いつか何かが、なんて思い上がった愚かな感情は持たないことだな。そういうふうに他者に期待しないこと。どんなに時代が進もうが、人間の死にたいという感情の出現をなくすことはできないようで、結局最後に自分を救うのは自分自身だとしたら、もうどう生きたって他者は関係なくなる。
自分の限界まで自分の生を生きていくだけ。