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誹謗中傷ではなかったけれど…。私がブログを続けられなくなった時の話。

数年前、私はブログに日常をつづっていた。記事が溜まって、読者が少しづつ増えてきたころに、小3だった息子がクラス班でいじめにあった。子育てのことも当たり前に書いていたし、身バレもしていなかったので、私はそのことについても書いた。毎日が辛そうで、どんどんネガティブになっていく息子の様子を書き留め公開する作業は、日に日にキツくなっていって、楽しかったブログが徐々に苦痛になってしまった。
でも、“そういう時期もあったな…”と思える日が来ると信じて、同じ境遇の人に“自分だけじゃないんだ…”と思ってほしくて頑張って書いていた。ママ友はいたけれど、同じクラス内のことで事細かに愚痴るのも難しく、ブログが愚痴を吐ける唯一の場だったのかもしれない。

“息子の母”としての私と、“一人の大人”としての私

生まれて数年しか経っていない子どもはどうしたって未熟だ。うっかり間違えることも、知らずに人を傷つけてしまうことも、ちょっとした意地悪のつもりで一線を超えることもある。その時も今も、私の考えは変わっていない。もちろん、息子の母として、処理しきれない怒りや悲しみに襲われていたけれど、一人の大人としての私は、“ここで正しく叱られて自分の非に気づけることが大事”と、一生懸命に言い聞かせていた。まだ小3。間違いに気づくのには全然遅くない。冷静に。冷静に。

子どもの残酷さを見てしまった悲劇

そんな最中の参観日の授業中、驚いたことに、班の子たちは私の目の前で息子を仲間外れにして睨みつけ、課題を押し付けた挙句、息子の回答に寄ってたかって文句を言った。あどけない表情の子どもらの残酷さにショックを受け、息子の置かれている境遇を目にして、呼吸が浅くなった。未だに思い出すと心臓がバクバクしてしまうけれど、1日でここまで書けているので、時薬の効果があったということだ。当時は、この出来事を記事にするのに数か月かかった。
思ったよりも深刻だったけど、「いじめ当事者の親」として、冷静でありたかった。子どもがしてしまった“ミス”を、感情的にあげつらうのは大人げないと思っていた。彼らは、成長過程にあり、たまたま間違ってしまっただけで、ずっと「悪」なわけではない。何度もそう言い聞かせ、『罪を憎んで人を憎まず』の精神で踏ん張っていたけれど、私もギリギリだった。

誰か私を慰めて!産休中の先生から届いたひとつのコメント

そして、私の目から見た事実のまま書いた記事にコメントがついた。コメントがつくと嬉しい。その経験しかなかった私は、共感なのか、同情なのか、労いなのか分からないけれど、その事実に喜んだ。でも、産休中だという学校の先生からのコメントは期待した類のものではなかった。
「子供目線で考えてみる必要があるのでは。息子さんのせいで他の子たちが嫌な思いをしているのかもしれませんよ?まだ小学3年生。相手のお子さんたちを悪く言わないで。息子さんへのフォロー頑張ってください」
予想外のコメントにビックリし過ぎて、呼吸が止まるかと思った。責められているわけでも、怒られているわけでもなかったかもしれない。優しい文体に思えなくもない。なんなら応援だってしてくれている。でも、私は怖かった。何も知らない人が、何も知らないまま、全てお見通しとでも言いたげに口を出す。ましてや、教師という子供に一番近い立場の人が、ひと言も被害者である息子を気遣わずに、我が子がいじめられている現場を目撃した親の気持ちを後回しにして、いじめっ子に寄り添い、息子が悪かった可能性を問うてくる。もう、何がなんだか分からなかった。
私の記事には、ネガティブな感情は溢れまくっていたけれど、いじめっ子を否定したつもりはない。だって、当時私は毎日ひたすらに、彼らは、成長過程にあり、たまたま間違ってしまっただけで、ずっと「悪」なわけではない…と自分に言い聞かせていたのだから。

心は折れた。彼女はきっと、私がブログを書けなくなった理由を知らない

よく分からない(そして、全然必要のない)使命感で、その後も頑張っていくつかの記事を書いた。でも、何を書いても、悪いのは私や息子だと思われているような気がして、とうとう筆は進まなくなった。日常と自分の心を守るために、私はブログを辞めた。
今思えば、彼女がコメントをくれたのは、優しさだったのかもしれない。怒り悲しみ絶望するいじめられっ子の母に、「そんなに深刻にならないで」「まだ子供なんだから大丈夫」と、伝えたかったのかもしれない。たったひとつのコメントに打ちひしがれた私は繊細過ぎたともいえるだろう。
でも、優しさかどうか判断がつかないような言葉をわざわざ言う必要はあったのだろうか。あなたの信じる正しさは、“地球は丸い”や“1+1=2”と同じくらい明らかに正しいものだろうか。

迷ったら、“何も言わない”という選択肢もある

noteを始める時、私はもう一度、その出来事を思い出していた。言葉の怖さを知ってしまったことも、私がnoteを始めるのに時間がかかった理由のひとつだ。
言葉は使い手の感情や意志でどうにでも変わる。言いたいことが、相手の聞きたい言葉とは限らない。教えてあげたいという親切心も、知らない誰かだからこそ伝えられることと、そうでないことがある。迷ったときには、“何も言わない”という選択肢も大事だと思う。私の感じた恐怖と孤独を、誰かに与えることがないように。
よく言われることだけど、言葉は凶器になる。伝える側が、凶器のつもりで使っていなくても。そして、そこが、とても怖いところだと思う。
何を言うか、何を言わないか。よく考えて発信したい。私は今、改めてそんなふうに思っている。



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