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#10 労働とは

こんにちは。

今日は「労働とは何か」という根源的な問いについて考えてみます。

最近、僕もまともにバイトなるものをはじめ、そして「働くってこんな感じなのか」と未知の世界と出会う日々を過ごしています。

まだ「所詮バイト」を「ほんの2、3ヶ月」経験しただけの若造が話すことです。「何をわかった気になって」とお感じになる方もいらっしゃると思いますが、バイトをきっかけに、大学生が「働くとはどのようなものか」を、一人間として、等身大で考えてみたんだな、と暖かく見守っていただけると幸いです。

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私は近年の「好きなことで生きていく(働く)」的な考え方には多少なりとも懐疑的である。そりゃ1億2千万人もいれば、好きなことをして生きられる人は、現代に限らずいつの時代でも多少はいただろう。しかし働くの本義は「自分の」好きなことの延長ではないというのが私の持論である。では本義とは何かと問われると、「労働とは実に意味がわからないもの」なのではないかと思うのだ。


手始めに日本国憲法第27条を引用してみる。

「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。」

学校でもおそらく習うであろうこの条文は、一見自然に見えるがよくよく考えると大変に不自然である。権利と義務が同時に生じるとはいかなることか。権利と義務はもちろん対義語である。自由と束縛、賛成と反対、そんな対義語が両立する現象を私は他に知らない。でもこの条文から一つわかることがあるとすれば、「労働することができる」かつ、「労働しなければならない」というのは詰まる所、「すべての国民は労働するものだ、そういうものなのだ」ということである。


続いて、動物との比較を考える。

動物は労働しない。

いやいや、野生の動物は自分の食料を確保するために他の動物を捕獲し食らうているではないかという声が聞こえてきそうであるが、これは労働ではなかろう。どちらかといえば、労働というよりもスーパーに食料を買いに行く様な行為に近いように私は感じる。

それでは労働とは何かというと、いわゆるサービスのことである。美味しい料理を他人のために作ってあげることや、綺麗なお家を他人のために建ててあげること、便利な機械を他人のために組み立ててあげること、重い荷物を他人のために運んであげること、このどれもが「自分のため」ではなく「他人のため」に行われることである。

しかし、そんな風に誰かのために自分の時間と労力を割く動物は、きっと人間以外にいないであろう。逆になぜ人間のみが、他者のためにそのようなことをするようになったのだろうか。もっと他者のためではなくて自分のためにそのリソースを割くほうが合理的である。しかし、人間は非合理的な「他人のための」行動を取ることを優先し、ここまで繁栄してきた唯一の動物なのである。だから人間とはわけのわからない生物であるし、そして労働とは非合理的でやはり「意味のわからないもの」になってしまうのである。


最後に学生視点で考える。

大学生になって初めてバイトをするという人は大勢いる。というより、世の中のバイトは結構な数が大学生なのではないかと思う。しかし、今まで受験のための勉強しかしてこなかった学生にとって、バイトという労働入門編ですら大変しんどいものになり得るのである。それはなぜか。受験とバイトは全くもって構造的に性質が異なるものだからである。受験は「自分のために勉強をし、合理的に効率よく勉強を積み重ねた結果が、志望校への合格という形で自己に返還される」というシステムである。しかし、労働とは先ほど述べたとおり、受験とはまるで前提が異なるのである。基本姿勢が「他人のため」であり、「意味がわからなく非合理的という本質」を持ち合わせていて、しかもその労働の末には(給料はあるし、仕事を通じて得るものは多いし人間的な成長ももちろんあるが)システムとしての劇的なゴールは待っていないのである。こんなにルールの違う環境で「楽しく働く」ことは、おそらく受験の世界を懸命に生きていた人ほど難しくなってしまうのかもしれない。

こんなことをあれこれと思索していると、やはり労働とはわけがわからないものだという結論に至ってしまうのだ。


冒頭の話に戻るが、「好きなことで生きていく」という話。好きなことで食べていける人はそれで食べていけばよろしい。自分の好きなことだからこそ、多大なる愛と熱量と努力とも思わない努力によって、誰も手の届かない域にまで達する可能性は誰にだってあるし、それが他人へのサービスに繋がるのであればそれは立派な労働となり得るのだ。(サービスを発信する手段も、顧客やファンを集める手段も、テクノロジーのおかげで容易とは言わずともかなり個人単位でできるようになってきていると思う)

しかし、そういったクリエイティヴなお仕事は、そうでない仕事に比較するとやはり厳しい。クリエイティヴの性質として、「他人と同じこと」には価値がなく、他ならぬ「他人と違うこと」に価値がつくのだ。(だからこそ、最近のyoutube界隈では、「まだ誰もやっていない領域」を目指して、投稿者はどんどんニッチな分野を攻めていかねばならないという状況が生まれている。)芸術の分野は本当にその性質が顕著に出るが、今や市民権を得た動画配信レベルですら「差別化」が肝であり、「二番煎じ」は往往にして「売れない」。

その点、「好きなこと」ではなくても、普通に会社にお勤めするような仕事や行政職はその判定がかなり甘いはずである。もちろん他人にはできないことをできる人材は、どこの組織にいても重宝されるだろうが、会社内では「そこそこ」に自分の仕事ができていれば、お給料は安定してもらえるのだ。それは決して自分だけができる仕事ではないが、それでもそのお仕事にはちゃんとお客さんがいて、その需要に答えているのだから何も問題はないと、私は思う。

逆に、「やりがい」のある仕事とか「自分の適正」を発揮できる職場を、初めから求めすぎるのはあまり賢明ではないと感じる。結局のところそんなものは「やってみないとわからないこと」であり、そもそも仕事とはやりがいのためでも自分の得意なことを披露する場でもないのだ。やりがいを感じられなくても、自分の得意なことができなくても、ちゃんと「働いている」のであれば、憲法的には「それで十分、それだけでよろしい」、ということなのだ。



とここまでが、堅めに書いた私の「労働」に対する考えである。意見反論は大いにあるだろうし、せっかくこのnoteを読んでくださっている貴重な読者の皆様からは非難轟々かもしれないが、そう思われた方はそっとこのページから離れてもらえるとありがたい。


最後に。終始、労働とはよくわからないものであると言い続けたが、あくまでそれは「労働」というものを説明するための言葉であって、問いが「働き方」となると答えもまた変わってくる。「与えられた場所で咲きなさい」とはよく言ったもので、自分の、ある程度代替可能なその仕事を、どのように取り組むのかは結局のところ自分の心持ち一つである。いつまでも「新入社員」では組織のお荷物であるから、早く「指導される側」から「指導する側」になれるように努力する必要も当然ながらある。何より、そんな訳の分からないもの(労働)を愛するか忌み嫌うかはまた自分次第である。ある意味、「仕事って基本的には訳がわからないけれど、〇〇してるときは楽しいからいっか」と気楽に仕事と向き合ったほうが案外色々と上手くいくのかもしれない。

私もこうして、初めての仕事と慣れない接客でうまくいかないことばかりであるが、それでも日々思ったことを書き連ねるこの時間はそれなりに楽しいものであるのだからそれでよろしいということにしよう。ちゃんちゃん。


ではでは今日はこの辺で。へばの〜


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