自己紹介


2021.10.21(最終更新)



わたしたちはしばしば、情報の波に翻弄され渦に見舞われます。

2011年には、東日本大震災後の福島原発事故のその後に及ぼす影響について、主にはSNSにより、たくさんの意見や考察、推察が飛び交いました。
まず、どの情報源ソースを「正」と判断するか、その指標として、発信源を辿る動きも盛んになりました。
個人が自分の意見を発表する際、参考にした資料の信頼性をまず確認しに行くことがわたしたちの、情報の取捨選択におけるプロセスの第一選択肢に定義づけられたように感じます。

無論この向きは、インターネットやSNSの普及、浸透以前からあった傾向です。
雑誌、書物で述べられた意見であれば、書いた人はどのような学歴を経てどういった分野に造詣の深いくわしい人物なのか。過去、どういった行いや振る舞い・活動をしてきた人なのか。普段どのような人物と交流をしている人なのか。内容の信憑性を測る目安としてこの工程(入ってきた情報の根源を知ろうとするステップ)を踏まない人はいない、といえると思います。

また、わたしたちは物事の真偽や好き嫌いを選択する場合にも似たような思考のプロセスを辿っている事が多いように考察しています。
たとえばメディアで観るタレントやアクターや音楽家、研究家、評論家、あらゆる表現者の作品について(食べものや身につける物についても同じ、この世界のすべてはだれかの表現物である)、それを好むか好まないか、手や目や耳や口にするかしないか、その選択を決定する際に、彼らのプライベートでの素行や動向に関する表面的な情報を判断材料として集めようとする人も多くいるようです。

その是非について、ここで問う事がわたしの目的ではありません。
( 半生において目的を持ったことがない。
  長期的な目的を持たないことを目標として来た、
  完璧な自由を希求する本能COREの導きのままに。 )

多くの人が、発信(表現と置き換えていい)されたものに少しでも興味や関心をいだく時、それが生成・製造・創造された背景や経緯を知りたいと感じる事、また知る術として、まずは発信/表現者そのものの実体を捉えようと模索するだろう事、それらは当然な流れ so natural だと申し上げたいのです。
急速に情報過多化して久しい2021年現在(情報も細分化の一途を辿り肥大し続けている)、それは危機管理の観点からみても欠かすべきでない、必要なプロセスともいえるかもしれません。


これからnoteというこの場舞台をお借りして、
作品物 dance 、あるいは(少し大袈裟に表現するならば)過去約32年において「自分というサンプルを使った研究の成果をここで書き連ねてゆくにあたり、わたし自身の近影について皆さまに知っていただくために、まずは自己紹介にあたる何かを書くべきだと考えました。

目に留めてくださった方(ありがとう)にとって、
有用な情報インスピレーションを得られそうな発信(表現)者であるか否か」を判断する指標となるように、何を書くべきかしばし悩みましたが、一般的に広く流用されている「年齢」「出身地」「出身校」「経歴」「職業(立場・看板)」についてはあえて記載しない事と決めました。
(何者であるかは受け手が自由に決めてくれて構わない、わたしはわたしが自由たらんとする故にあなたにもおなじものを与える)

これは個人特定をおそれたための選択ではなく、これまでの経験上、自分にとって有用な情報たいせつなことを与えてくれそうな発信・表現者であるか否かの思考的判定・選別をする際、確信的な判断や個人的なひとつの結論に至るまでの考察において、それらは常に邪魔になる事が多かった、という体感の記憶にもとづく結果です。
(単なる因果律のおはなし)

今後、書いてゆく記述・物語の中で、ノンフィクションのものについては話を伝える・進める上で必要性を感じれば、個人的過去経歴には順次自然と触れて行く事になろうかと思います。(筆者と関わってくださった方々の個人情報については十二分な配慮に努めるが筆者自身は全裸スタイルで行く)

ひとつご留意いただきたい点について記しておきたいと思います。
言葉というものの不確実性を考慮して
言葉も生きている、手が先にこのセンテンスを打って思考と感情が後から驚いて歓喜している、そうか、言葉も生きていたんだ!いくつかの点と点が結ばれ、この瞬間からしっかりと線になっていった。わたしはこの線を繰り返し強くなぞるだろう20210926)、
また、自身の文章に対しての美学的観点 こだわり からも、一度公開した投稿物について、加筆修正を後に施します。
ひらたく申せば書いた内容について、後に大きく内容が変化する可能性も考慮しておりますため「スキ」に道義的信条等の意味付けを定義なさっている方は特に、
投稿に瞬間・反射的に反応する事をお控えくださいますようお願い申し上げます。
(これはいまだに数字を集めたがる人等ひとらへの反旗でもある、は本来このように扱われるべきものではない)
また時に、各テキス 記 事 ト毎のテーマを進めるために、過剰と捉えられるかもしれない比喩・例え、少々らんぼうな引用の仕方に着地してしまう可能性もございます。
(生来の筆者の性質たるところが「野生児」ですのでおゆるしくださいませ)

本テキストこの記事も含め、自己の放出した情報・意見 表 現 の内容に関して、物理的時間のゆるす限り精査する行為を繰り返しおこたらずに書き進めていく所存ではおりますため、
あわせましてご容赦いただけますと幸いです。
(加筆修正/一部の削除を含む変更を行った際の最終更新年月日を文頭に記載する一旦のルールとしています)

生きているということは、
断続的な時間と選択の連続上に置かれた、想定外の事象発生の可能性を常にはらんでいるゲームだと捉えています(幸も不幸も等しく味わって楽しむ事が最重要)。


プレイヤーとして今この瞬間までの主観的知見から現在自分の中に決定づけている結論を発信してゆく心づもりでおりますが時間も自身の思考もこの世界では随時流れており常に流れている水は腐らない、更なる経験と探求によって現在持ち合わせている結論も毎秒更新・変容していく事が予測されます。
(この世界唯一の不変は変わらないものはひとつもないということ、有形無形どちらにおいても)

従来よりながく(ほんとうになが過ぎた)、人類の社会活動上の多くのシーンで、揺がし難く強固な常識的観念として君臨している「一度発信、発言した意見を変容させる事や撤回はできない」「前述と矛盾する意見の後からの発信は許されない」(これらは政治、学術・研究・ビジネス・個人間での交流においても常に起きている)風潮につよい疑念がありました。
意見や気持ち主義主張にある種の一貫性が常に保たれている事こそが重要とされている」事の方に、より深い矛盾をわたしの本能は感じています。
一貫性を「正」とし過ぎるその副作用として、自由度の高い発言、発表に対する過剰な抑圧が頻発する可能性が高まっているのではないかという危惧きぐも抱いています。
重い責任を担う社会的立場にある人やつよい影響力を保持している人の方がそうでない人よりも矛盾が生じた際、より激しい糾弾や攻撃に遭うという法則性も関心事項のひとつです(ひとつにはもちろん著名であるため影響を受け取る人の絶対数がそうでない人より多いという点が挙げられる)。

表現の自由が侵害される恐れのある風潮の定着化(ながく何千年にもわたって使い続けた観念の習慣に囚われ過ぎている)、個人の思想や概念が一点に固定され続ける不自由さを憂う想いと、これらもまた、わたしたちの文明や意識の発展性を阻む現代における新たな障壁ラーフラのひとつなのではという仮説から(新しい様に思えるが人類はこれに似た壁と繰り返し対峙してきた)、あえて実験的にこの形態(発表以降の部分的撤回を含む変更ありき未完成投稿・思考プロセス開示ぜんらスタイル)を選択するに至った経緯をも含みます。
個人的記録も兼ねているため、駄文の多く含まれるコンテンツ 記事 になる可能性が高いです。羞恥心をかなぐり捨てて、過去の紙媒体の未熟で稚拙な個人記録(作品)についても発表していきたいと考えています。


以上をあらかじめご承知おきの上で、ご利用いただけますと幸いです。

わたしの発信していくものと思考体系の個性が、どなたかにとっての役に立つ情報、腑に落ちる結論を導き出すためのささやかなヒント・道具となり得えますように。

そう願い出来るだけ忠実に記して再現してゆきたいと思います。





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