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心臓がぎゅってする。

卒業論文提出と院試出願を来週に控えた今、一刻も早く完成に向かうべきなのだろうが、少し立ち止まりたくなってしまった。

「心臓がぎゅってする」
このような感覚を抱いたことのある人はどのくらいいるのだろう。

それが生じるのは、作品に触れたときだったり、音楽を耳にしたときだったり、ふとなにかを思い出したときだったり。
あたかも本当に心臓が掴まれているような感覚に痛みが生じながらも、不快さのみで構成されているわけではない。懐かしさとも、切なさとも、悲しさともつかないこの感情。きっとこの感情にあてはまる形容詞を探し出すのではなく、この感情を表せる言葉を用意しなければならないのだと思う。

何かひとつの形容詞では表せない言葉だけれど、ひとつだけ選ばなければならないとすれば、私は「愛おしさ」と答えるだろう。しかし、それは便宜上のものでしかない。ひとに伝える上で仕方なく選び取った言葉。伝わる気がしなくて、結局のところ実際に使ったことはないような気もするけれど。


以前、天使と悪魔のようにひとにはいろんな自分が同時に存在しているのだろう、という話をした。それで説明するならば、なんだかかつての ”自分” をメタ的にみているような感覚というのが近い。
そのときに想起された ”自分” が愛おしくて、でもそこにいる "自分" は昔の自分という意味で私と不可分であり、けれどもその ”自分” の立場からすると私から向けられた愛情をうまく受け取れないし、今の私からするとその子に愛情は届かないし、同時にそうやって愛情を向けられている "自分" が羨ましくて、「私も欲しかった」と思って傷ついてしまう。
「心臓がぎゅってした」とき、このような様々な感情が押し寄せて、混沌に包まれる。


愛おしさがあるから嫌な感じではないのだけど、その愛おしさを向けられた ”自分” は少し苦しいし、受け取ってもらえないことへの私の傷つきも、自分が「得られなかった(と感じている)」ことへの傷つきもある。
そんなとき、どうしていいのか分からずただうずくまるしかない。この気持ちをどう説明するのか、このうちのどのような感情にもっとも共鳴するのかはひとによると思うけれど、わたしは傷ついたものたちの「痛み」に一番反応してしまうみたいだ。訳もわからず流れる涙を拭うこともできず、痛みに耐えている。

こう説明すると、「不快なだけではないのか」と言われてしまいそうだなと思う。実際、「痛み」が大きいという意味では不快なものであることは間違いない。けれども、まごうことなくそこには「愛おしさ」が存在している。

当時の自分が欲しかったもの。向けられたかったもの。
どんなに望んでも手に入らないそれを、求めても虚しいだけのそれを、与えてもらえるようになったころには、もう突き放す方法しかわからなかった。寂しくて、悲しくて、持つことを恐れて、怖がって、強がって、そんなものいらないと言い聞かせた。そんな自分が一番嫌いだった。

この歳になってようやく、その自分に愛おしさを覚えることができるようになった。しかしわたしが愛情を向けたところで、その子は受け取ってくれない。受け取ってくれないばかりか、敵意のみが返ってくる。けれどもそれはわたしが通ってきた道で、その場所の寂しさや苦しさをだれよりも知っている。
だから傷つきながらも、愛おしさを感じることをやめられないのだ。

「心臓がぎゅってした」とき、自分に対して愛おしさを抱けるようにはなったけれど、「私も欲しかった」という羨望は未だ拭いきれずに残っている。だからこそ痛みに共鳴して、苦しさが強く出てしまうのだろう。早く純粋な愛情を向けられるようになりたいと思いながらも、じゃあもしそうなったとき、わたしは目の前のその子を自分だと思えるのだろうかという疑問も残る。その子を自分と全く切り離した存在として愛そうと努力するのはそこまで難しいことではない。けれども、そのときその子は本当に救われるのだろうか。自分との連続性を断ち切って愛そうとすることには、多くの犠牲が伴う。代償も払わなければならない。今までさんざん思い知らされてきたことだ。
だからこそ、その痛みを引き受けながら愛おしく思うという苦しみから逃れることができずにいるのかもしれない。