【短編】音の三部作「ブレーキの悲鳴」
深夜の住宅街に車のブレーキの悲鳴が響き渡った。続いてドスンという鈍い音が聞こえた。「またか・・・」俺は、そう思っていた。
この辺は住宅街で普段は車は通らないのだが、少し離れた所に有る国道が、深夜の工事で片側通行になっている時などに、家路を急ぐ車の迂回路となる事が多かった。しかし、俺の住んでいるマンションの近くの十字路は、角の家が出っ張っているのと、少しきついカーブになっているために見通しが悪く、年に数回は人身事故が起こるのだ。
慣れている筈の人身事故だが、今日は何か普段と様子が違うような気がする。そう、何か違和感がするのだ。すぐにはその違和感の正体はわからなかったが、数分の後、その理由がわかった。そうだ・・・、普段なら事故の後には、深夜であっても近所の家から野次馬が飛び出して来たり、パトカーや救急車が駆けつけて騒がしくなっている筈だ。それが、今日に限っては、ブレーキの悲鳴と人をはねた音がした後でも、何事も無かったかのように辺りは静かなままだった。俺には関係無いという気もしたが、すぐに落ちつかなってしまいスウェット姿のままサンダル履きで表に出た。
問題の十字路に行くと、血まみれで、ぐったりした女が道路の端に横たわっていた。道路には見るからに真新しそうなブレーキ痕がくっきりと残っている。しかし、車の姿はどこにも無い。轢き逃げだと思った俺は、先程までは自分も無関心を装うつもりでいた事もすっかり忘れ、辺りの家の住人の薄情さに腹が立っていた。確かに、でかい音がした筈なのに何で誰も出てこない。
血まみれの女の真近に寄ると、息をしている事は確認できた。声を掛けてみたが意識は無い。年齢は20歳そこそこといったところだ。救急車を呼ばなければと思ったところで、携帯電話を持って来ていない事に気がついた。そして、この辺りには公衆電話も無いことにも。数分は掛かるが仕方ないなと思い、俺は自分の部屋まで走り、自宅から119番に掛けた。事故があった旨と場所を告げ、電話を切った。そして、女のところへ戻り救急車の到着を待とうと部屋を出た。急いで先程の十字路まで戻った俺は、一瞬自分の目を疑った。
そこには何も無かったのだ。血まみれの女も、ブレーキの痕跡も何も無いのだ。女を轢き逃げした車が戻って来て、女を連れ去ったのかとも思ったが、俺が電話を掛けに自分の部屋に戻り、再びこの現場に到着するまでには、ものの5,6分程度しか掛かっていない。そんな僅かの時間で、女を車に乗せ、辺りの血痕を洗浄し、ブレーキの痕跡を消して立ち去るなど到底不可能だ。それに、俺は車のエンジン音など聞いてもいない。さらに、驚くべき事は女の血痕もブレーキ痕もきれいに消されたというよりも、始めから何も無かったと言った方が適切だと思われる様子なのだ。それほどまでに、何も痕跡が残っていないのだ。
俺は夢でも見ていたのだろうか。まさに狐につままれた感じがするとしか言いようがない。その時、まだ遠くの方からだが救急車のサイレンの音が聞こえてきた。俺は、ここに居てはまずいと感じ、その場をすぐに立ち去り、自分の部屋に大急ぎで駆け込んだ。玄関のドアを閉めると深く一息ついた。部屋に上がった俺は、サイドボードにあったターキーのボトルをラッパ飲みであおり、気分を落ち着かせようとした。どう考えても納得がいかないのだ。どういう事なんだ、さっぱり判らない・・・。そうこうする内に救急車は現場に到着したらしくサイレン音が消えた後、しばらくしてドアを開け閉めする音がした。近所の家からも、騒ぎを聞きつけた人達が集まりだしたのだろう、ざわざわとしたとした話し声が聞こえ、互いに事態を確認しているようだった。そして、30分も経過した頃だろうか、再び車のドアを開け閉めする音がし、救急車は走り去って行った。きっと、いたずら電話だったという事にでもなっている事だろう。近所の人達の話声が途絶え、辺りが静かになったところで、俺も緊張が途切れたのだろうか、ターキーのアルコールが体を巡りだし、急激な眠気に襲われた。
翌朝になり、目が覚めると、ベッドではなくソファーに寝込んでしまっていた事に気が付いた。テーブルの上を見ると、キャップを開けたままに置かれていたターキーのボトルが、昨日の出来事が夢ではなかった事を物語っていた。一体何がどうなったというんだ。俺にはさっぱり訳が判らない。それでも、取り敢えず顔を洗い、スーツに着替えた。俺は出勤のために、最寄りの駅に行く途中に、少しでも手がかりが見つからないかと、昨日の事故があったはずの現場に立ち寄ってみた。
街灯の明かりで見た、昨日の十字路と同じように、全くいつもと変わらない見なれた光景がそこにはあった。事故の痕跡も、血痕も残ってはいなかった。誰かが痕跡をきれいに消したという感じではなく、何日も前から変わらぬ光景がそこには有るだけという感じだった。やはり何も無かったということなのだろうか、全ては俺の勘違いだったというのだろうか。
その日はそのまま出社したものの、ほとんど何も手につかず、昨日の事故のことばかりを考えていた。結局、仕事にならないと諦めた俺は、今日はさっさと帰って寝ちまおうと考えた。普段は残業ばかりで、退社時間は22時を軽く過ぎてしまうのが常なこの俺が、定時になると同時に、真っ先に帰り支度を始めた。体調でも優れないのかと訝る周囲を適当にあしらい、さっさとエレベーターに乗り帰宅の途についた。
自宅に帰り着くと、普段は観る事が出来ないニュースやテレビ番組を片っ端からザッピングし、夕食も済ませシャワーも浴びた。久しぶりに平日の夜の自宅でゆったりとした時間を過ごしたところで、たまにはとっとと寝てしまおうとベッドに潜り込んだ。いざ、ベッドの中に入り静かになると、頭の中はやはり昨日の事でいっぱいになってしまった。それでも、何とか寝てしまおうと一時間くらい格闘してみたが、やはり寝ることは出来なかった。こうなったら、やっぱり頼るものはアルコールしかない。ベッドから抜け出した俺は、テーブルに置きっぱなしの昨日のターキーを手に取り、やはり昨日と同じように一息にあおった。そんな事をしているうちに、昨日ブレーキの悲鳴が聞こえた時間帯に差しかかろうとしていた。やがて、アルコールの力を借りた俺は、やっと、うとうとし始めてきた。
と、その時だった。ブレーキの悲鳴が聞こえた。そして、間髪入れずに鈍い音が…。うとうとしかけていた俺は、はっとして飛び起きた。そして、とっさに事故だと思ったが、すぐに昨日の出来事を思い浮かべた。しばらく耳を澄ましてみたが、やはり昨日と同じようにそれ以降に物音は何もしない。車が立ち去るような音も聞こえてこない。そこで、俺はまた、昨日と同じように部屋を飛び出そうとした。そこで、ふと、携帯電話を持っていこうという考えが浮かび、枕もとで充電していた携帯電話からケーブルを抜き取り表に出た。
駆け足で十字路に辿りつくと、やはり昨日と同じように20歳そこそこくらいの女が血まみれの状態でぐったりと倒れていた。しかし、見るからに瀕死の重症だが息があるのは判る。道路を見ると、やはり出来立てのブレーキ痕があった。しかし、また、この女を跳ねた筈の車はどこにも無いのだ。
その瞬間、背筋をぞくっと寒気が走った。「何かがおかしい、絶対におかしい。」これは俺にだけしか見えていない事なのだろうか、俺にだけしか聞こえていない事だというのか。じゃあ、なにか、俺の気が狂ってしまったとでもいうのか。それとも、幻覚を見ているとでもいうのか。そりゃ、確かに俺はオーバーワークとすみん不足な日々を重ねてきた。誰からも働き過ぎと言われるくらいに働き詰めてきた。しかし、学生時代にラグビーで鍛えた体は、只の一度も健康診断に引っかかる事は無かったし、健康そのものだとつい先週、医者に太鼓判を押されたばかりだ。精神的にもタフだと誰もが認めているくらいの男なんだぞ。気が狂ったり、幻覚を見たりなんてするものか。それに、今現にこうして思考をめぐらしているじゃないか。じゃあ、これは何なんだ、俺が見ているものは一体何なんだ。
色々な考えを巡らした後、俺は一つの結論を出した。今、俺の目の前には確かに血まみれで瀕死の女が倒れている。しかし、良く見れば昨日とは違う女だ。確かに轢いた筈の車はここには居ない。走り去る音も聞こえなかった。だが、現実に女は俺の目の前に倒れている。百歩譲って昨日俺が見聞きした事が何かの間違いだったとしても、今俺が目の当たりにしている事は事実として疑い様も無い筈だ。今、助けを呼べばこの瀕死の女も助かるかもしれない。そうだ、そういう事だ。ごちゃごちゃした事は後で考えればいい。今は助けを呼ぶ方が先決だ。
そう思い直した俺は、手に握り締めていた携帯電話で119番に電話しようとした。と、その時だ、ぐったり倒れていた筈の女がゆっくりと立ちあがったのだ。予期せぬ事に、びっくりした俺は、後ずさりをして女から距離を置こうと少し離れた。ところが、その女はものすごい速さで俺の後ろに回り込み、俺を羽交い締めにした。俺は力の限りに抵抗し女の腕を振りほどこうとした。ところが、女は信じがたい程の力で俺を締め付けた。ごく普通の体格をした女が、引退したとはいえラグビーで鍛えたこの俺を、身動きも出来ない程に羽交い締めに出来るものだろうか。そう考えた途端、俺の中にどす黒い恐怖感がこみ上げて来た。大の男があまりの恐怖感に声も出せなくなってしまう程に・・・。
俺を締め付ける女の力がいっそう増した次の瞬間、女はそのまま俺を、十字路の真中まで引きずり始めた。俺は力いっぱいの抵抗をしたが、その抵抗も空しく、十字路の真中に連れ出されてしまった。そして、俺の目に飛び込んできたのは、ものすごいスピードで迫ってきた車のヘッドライトだった。俺の顔が恐怖に引きつった次の瞬間、俺は車に弾き飛ばされ宙を舞い、意識は遠のいて行った。
それからどれくらいの時間が経った頃だろうか、意識を取り戻した俺は…。俺は宙に浮いていた…。そして、宙を浮いた俺の下の方を見ると、あの十字路に救急車やパトカーがあり。その周りを取り囲むように、近所の人間が何人も集まっていた。そして、その輪の中心には、そう、俺が居たのだ。頭から血を流し、手には携帯を握り締めたまま崩れるように倒れていた。
そう、俺はあの時、車に轢かれたまま死を迎えてしまったのだった。顔を上げその視線を俺の隣に移すと、そこには、俺を羽交い締めにした女が俺と同じように、宙に浮いていた。何か言おうと口を開いた時、女の姿が白い猫に変わった。そして、その猫は自らの白い体に、幾筋もの血を流していた。
俺は諦めにも似た気持ちで、思い出していた。そう、丁度、一年前のあの出来事を・・・。
あの日、何時もよりも仕事が長引いて終電にさえも間に合わなかった俺は、その時付き合っていた女に会社まで迎えに来てもらった。その女は俺のうちのすぐ近くに住んでいた事もあり、渋りながらも迎えに来てくれたのだった。そして、会社に到着した彼女の車の運転を、俺が替わり自宅方面に運転を急いだ。遅い時間だった事もあり、俺は焦っていたのかもしれない。家の近くの十字路まで着た時、ヘッドライト中に白い何かが浮かんだ。同時にどすっという音がし、車に衝撃が走った。慌てて、車を止め外に出ると車に撥ね飛ばされた白い猫が血まみれになり、ぐったりとしていた。近くによると、微かに息もあり、その時に獣医の所にでも連れて行けば助かる可能性もあったかもしれない。そう、「かもしれない」と言ったのは、家路を急いでいた上に仕事の疲れがピークに達していた俺は、結局、早く家に帰って休みたいと言う気持ちに流され、その猫を置き去りにしたまま走り去ってしまったのだった。
その後、車が傷ついた件で彼女とはケンカになり、しっくり行かなくなった。そして、数ヶ月後には結局分かれてしまった・・・。
そして、一年後の今日・・・。
やはり、あの時の猫はすぐに処置をしていれば助かったのに違いない。そして、自分を見殺しにした俺にその事を判らせたかったに違いない。そして、復讐を遂げ自分と同じ世界へ俺を連れて行く気なのだ。全てを諦めた俺は、深い絶望の中で、只々、深い深い後悔を覚えていた・・・。
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