喪失のあと:いなくなってしまった人のことを、なかったことにしたくない:つまり愛について
人はみな、「喪失のあと」を生きている。
最近つくづくそう思う。
数週間前に、あるミュージシャンが突然いなくなってしまった。そのことに友人が深いショックを受けている。その友人はいなくなってしまった彼に人生の深いところで大きな影響を受けていたから、(幸い割と早い段階で普通の日常生活を送ることができるようになったそうだけれど)やはり以前と全く同じように音楽を聴くというわけにはいかないようだ。
「喪失のあと」を生きることと向き合っている友人と話すなかで、僕もあらためて人生における喪失というものの意味について考えるようになった。
僕自身、これまでの人生のなかで何度か重大な喪失を経験し、そのたびに深いショックを受けてきた。いま思えば、いまの僕の生き方、価値観、そういったものはこれまでの喪失の経験が形成したものだと言っても相違ない。それぐらい、人がいなくなってしまうということ、喪失を経験するということは本質的なものなのだと思う。
喪失によって、人は喪失の前の充足を知る。喪失によって、人は喪失のあとの欠乏を知る。
その欠乏を、不在を、「そのままにしておく」というのも一つの生き方だと思う。
同時に、その欠乏を、不在を、「埋める」というのも一つの生き方だと思う。
無理して前に進む必要は無い。不可逆的な喪失というものは不可逆的であるがゆえに、強い逆作用を持つものだから。それに抗おうとすることで今度は自分自身を失くしてしまうようなことになるのがいちばんよくない。
ただ。
僕たちが「喪失のあと」を生きていくうえで大事なのは、「喪失の意味を思い続けること」だと思う。
それは究極的にはつまり、
「 いなくなってしまった人のことを、なかったことにしない」
ということに帰結するんじゃないか、というのが僕の思想の根幹だ。
僕らが喪失を感じるということはつまり、その喪失の前からその人のことがとても大切だったということ。大切なその人の存在はきっと、いまの自分の在り方をとても深いところで形作ってくれている。
だから、その人のことを自分の中でなかったことにするということは、これまでの自分、あるいは今の自分の在り方を否定することになる。そんなんじゃ、前を向いて未来を生きていくことはできないと僕は思う。
だから、たとえずるずると引きずることになっても、いなくなってしまった人のことをなかったことにしてはいけない。これは決して後ろ向きな考え方ではなくて、むしろ前を向いて進んでいくためにとても大切なことだ。
いなくなってしまった人のことを思い出すとつらくなる。そういうときもある。いつまでもくよくよしてはいられない。うん、それはそう。
だからこそ、自分の心の中に、彼らがひっそりと、落ち着いていられる住処を作って差し上げるのだ。
そうやっていなくなってしまった人たちが僕らの中で生き続けてくれたら、今度は彼らが僕たちを生かし続けてくれるようになる。
いなくなってしまった人を悼むというのは、そういうことだと僕は思う。
「なかったことにしない」という表現は、映画『エゴイスト』で鈴木亮平演じる主人公の斉藤浩輔が亡くなった恋人の母親に気持ちを吐露するときに絞り出した言葉だ。僕はこの台詞が耳に飛び込んできたときに脳天に雷が落ちたような衝撃を受け、それまでずっと言語化できずにいた「僕たちは如何にして喪失に向き合うことができるのか」という問いに対する答えを得た気がした。
人は誰しも、喪失の経験から逃れることはできない。人生は喪失の連続である。誰も彼もみんな、「喪失のあと」を生きていくことになる。
であればこそ、いなくなってしまった人を悼み続けるということは、人生そのものなのかもしれない。いなくなってしまった人を心の中で生かし、そして彼らに生かされていく。それが、生きていく、ということなんじゃないかな。
そしていつか自分がいなくなってしまったときに、別の誰かに悼んでもらえたら。別の誰かが心の中に住処を作ってくれたら。僕らの命は生物の限界の理を超越して、永遠を手に入れることができるのかもしれない。
そう思うと、なんだか少し、強くなれる気がしませんか。
草野マサムネが
「愛してるの響きだけで強くなれる気がした」
のって、そういうことなのかもしれない。
そう。「愛してるの響き」。
響き。
言葉の響き。
言葉は人を強くするのだ。
いなくなってしまった人のことを思い、彼らに届けたい言葉を口にし続けること。書き続けること。歌い続けること。
そうすることで、彼らの存在と不在は、みんなの心の中で生き続ける。
そうやって、彼らの生は永遠になる。
そうやって、僕たちの言葉は彼らに届く。
だから僕たちは、言葉を響かせ続けなければならない。いなくなってしまった人たちのための言葉を。
戦争。天災。事故。事件。
事が起こってから時が経つにつれ、そういった事々による喪失を語ることが憚られるようになっていく、ということがままある。じっさい、僕たちは12年前に経験したあまりにも重大な損失について少しずつ語らなくなってきている。
まぁ、わからなくはないけれど、やっぱりその喪失でいなくなってしまった人たちのための言葉を紡ぎ続けていくことは必要だと僕は強く思う。
『すずめの戸締り』は、そういう映画だった(僕は3月11日にこの映画をあらためて観た。この原稿は実はその時の鑑賞記録に加筆修正を施したものである)。
1.17や3.11、あるいは8.15のたびに「あれから〇〇年」というお題目で展開される所謂カレンダージャーナリズムにも、そういう意味がある。
僕はこれから、メディア人として、言葉を社会にとどけていく仕事をする。
いなくなってしまった人たちのことを、なかったことにしないために。そして、いなくなってしまった人たちを生かしつづけ、彼らの「喪失のあと」を僕たちが生き続けるための力を繋いでいくために。
僕は、いなくなってしまった人たちのための言葉を紡ぎ続け、彼らを悼むということを続けていきたい。
言葉で悼むということ。
悼んで、彼らのことをなかったことにしないということ。
これは先に触れたような大きな厄災においてのみ意味を持つものではなくて、もっと身近な、あるいは個人的な、一人の人の喪失についても同様の(あるいはそれ以上の)大きな意味を持つはずだ。
「愛してるの響きだけで強くなれる」という草野マサムネの詩の話に戻ろう。
大切な人に「愛してる」という言葉を届けること。
「愛してる」というのはつまり、「あなたの存在は私の中のとても大切な場所にいます」ということだと思う。これは先に述べた「自分の中に他者の住み処をつくる」ということと重なってくるんじゃないか。
「愛してる」と伝えることは、「私の中にあなたの居場所があります」と伝えること。誰かの中に自分の居場所があるということは、きっと人を強くしてくれる。だから「愛してるの響きだけで強くなれる」。
だから。
僕たちは、いなくなってしまった人に、「愛してる」という言葉を届け続けるのだ。
「愛してる」という言葉で、彼らを悼む。
「愛してる」という言葉で、いなくなってしまった彼らのことをなかったことにしない。
そう。
いなくなってしまった人のことをなかったことにしないということは、つまり、愛だ。
「喪失のあと」を生きる僕たちにとって大事なのは、いなくなってしまった人たちへの「愛してる」の言葉を絶やさないこと。その愛が、いなくなってしまった人の生を永遠にし、そして今を生きる僕たち自身をも強くしてくれる。
そして。
きっとそれと同じぐらい大事なのは、いま自分の目の前にいる大切な人にも「愛してる」の言葉を伝え続けることだと思う。
大事な人と「愛してる」の言葉を伝え合うことで、僕たちは「喪失のあと」の人生を強く、かつ靱やかに生きていくことができるんじゃないか。
なんだか話がとっちらかってしまった。
喪失とか、愛とか、あまりにも人生の根源的なところに立ち入ろうとし過ぎた感が否めない。うん、難しい。
でも、こういう難しいことを言語化するということから、僕は逃げたくない。
僕の前からいなくなってしまった僕の大切な人たちのなかには、僕の紡ぐ言葉の力を信じてくれた人が何人もいる。
僕が言葉に向き合うということは、彼らのことをなかったことにしないために、とても大切なことなのだ。
彼らが信じてくれた言葉を紡ぎ続けること。
それが僕の、いなくなってしまった彼らに対する精一杯の愛だ。
じいちゃん。零。涼平さん。金成さん。
そして、僕の言葉の連なりを最後まで読んでくれた貴方。
僕はみんなのことを愛しています。
いままでも、これからも、ずっと。
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