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平安奈すみれの奥底にこびりついた卑屈さだけが俺の""ノンフィクション""

平安奈すみれさんは強く気高くそれでいて脆く弱く美しい。かような性癖爆弾にラブライブで出会えるとは思えていなかった為、私の心は歓喜の涙を流している。

ラブライブスーパースター10話「チェケラッッ!!」それは神の名前。魂の還る場所。私の心の救済はここと4話【街角ギャラクシー☆彡】にて成される。

しかしながらあまりにも10話は神が宿っていた。ストーリーの素晴らしさだけではない、かくも強く私の性癖を刺激し震わす話にだ。
私は限界関係性オタクである。そのためこの話におけるすみれと可可においても当然心は震わされた、だがそれ以上に平安奈すみれさんにぶち抜かれた性癖の力のほうが巨大であった。事はそれほどまでに深刻なのだ。

こと10話における狂いの要因となるものは大きく分けて2つ。
彼女の選ばれなかったコンプレックスと過去に起因した自信のなさ。これらを視神経から直に叩き込まれ私は泡を吹いて倒れた。
特に前者に関しては【街角ギャラクシー☆彡】より更に踏み込んだ内容である為、より狂いの源足り得た。

グソクムシであることに安堵していた

10話にて明かされた事実である平安奈すみれはセンターを欲してはいるが実際貪欲に立とうとはしなかったということ。これは後述する過去のコンプレックスが要因となっている。
本当に自分がセンターでいいのか、その疑問こそが10話の命題である。他者の目から見てセンター向きでないことは言われている、そしてそれを自分がなによりも知っている。

彼女はずっと自分でも知らぬ間にグソクムシであることを甘んじていた。安らぎすら感じていたのかもしれない。主役でない、脇役に。
なぜならば選ばれたことがないから。ずっと、選ばれずにいたから。これである。彼女の中には諦めが存在していた。諦められない気持ちと諦めの感情は常に紙一重である。
誇らしくはないが消すこともできない過去の記憶の数々。脇役として頑張ってきたという輝きであり、主役になることはできなかったという呪いでもある。

すみれちゃんがこれらの記録、そして4話でも見ることのできたグソクムシの動画を消すことができなかった理由が10話にて判明する。そう、彼女はグソクムシであることに安堵していたからである。
いつの間にかセンターでない自分に慣れて、選ばれない自分に納得をしていたのだろう。だからいざ10話においてセンターに選ばれた際も驚きと拒否反応を示している。
自分で自分を肯定してあげられるだけの実績がないからだ。故に自信も生まれない。だからみんなに背中を押され、自らの手でティアラを掴み取るその姿がカタルシスとなる。

かのんにスカウトされ、そしてみんなに選ばれて渡されたあのティアラ。あれこそがすみれちゃんの魂の救済の形であり、存在の肯定である。
渡されたティアラを受け取るだけではなく、自らの手でティアラを掴むことで初めて自己肯定とは成される。センターに相応しくない、自分には向いていないと思う気持ちに打ち勝って汚れてもなんでもなりふり構わずティアラを得ようと走る行為にこそ魂の救済は宿る。
だからこそ、あの場でティアラを手にすることで彼女は自信を得る。誰からも選ばれず主役になれなかった過去を、みんなに選ばれてセンターになるという事実を受け入れることでコンプレックスを克服する。

光はここに存在する。選ばれなかったコンプレックスとセンターになれなかったコンプレックスを同時に解消するとはあまりに美しいやり口である。
それ故に不安もある。私はついていけるだろうか、コンプレックスを解消した平安奈すみれさんのいる世界のスピードに。

「どうせ最後はいつも私じゃなくなるんだから」

10話において更に特筆せねばねばならぬことがある。それは自信がないが故にわさわさと湧いてくる卑屈な言葉の数々だ。

「どうせ最後はいつも私じゃなくなるんだから」

小見出しにもしたこの言葉が最も強く熱く私の心を震わせた。これだけが生きる道、魂の昂り。
「どうせ」「いつも」という強調の言葉から平安奈さんの人生がどんなものだったのか察するのはあまりにも容易すぎる。これが前述した心にこびりついている諦めの塊である。
いつだってまるっきり可能性がないわけではない。彼女はハイスタンダードでなんでもこなせるがそれ故に突出した部分がない。だから可能性を抱けてしまう。それが毎回選ばれないという現実に心を摘まれる。

だからこそ最後には「いつも」選ばれないという現実がコンプレックスとなり心に卑屈さとしてこびりついている。その卑屈さは「どうせ」の部分からあまりにも痛烈に感じ取ることができる。
私はこの言葉を聞いた瞬間から涙が止まらなかった。なんて愛おしい生物なのだと本当に涙が止めどなく流れた。かようにビジュアルが良いというのに幼いころからショウビジネスの世界で生きてきたばかりに、普通の世界であればあれほどのビジュアル無双して生きていくには困らないであろうに。自分の選んだ道で彼女は常に選ばれなかった。
それでも自分の心に向き合い、コンプレックスを抱きながらも逃げることなく生きる姿に愛を感じない訳がない。そしていざ念願の待ち望んでいたチャンスがきたら怖くなり逃げ出してしまうと。かようにかわいいったらかわいい生物がこの世に存在しようか。

コンプレックスや卑屈といった言葉は私が愛して止まない癖の言葉だ。ラブライブは定期的にこれらを接種させてくれるがこんなにも脳に電流が流れる強さは久方ぶりであった。
先のどうせ発言だけでなく「同情なんかでセンターになったって嬉しくない」や「私が可哀想だから? 頑張っているのにいつもセンターになれないから?」といった性癖ワードの連発には全身から泡が吹き出たしシンプルに「だって私よ?」という言葉にはその愛おしさを心の底から噛み締めた。

それら全てにはここで話した今までの選ばれなかったショウビジネス人生とそんな選ばれなかった自分だから自信を持つことができなかった。という背景があるということを噛みしめることでその旨味と火力は段違いのものと化す。

But this is ノンフィクション!!

平安奈すみれさん、ああ平安奈すみれさん。あまりにも愛おしく美しい人。まさか正味1期の間でコンプレックスの解消まで行くとはまるで思ってもいなかった為、衝撃であった。
ここでコンプレックスを解消したら今後やることがなくなるのでは? そしてコンプレックスが消えることは私の性癖から逸れるということではないか。そんな感情が過る瞬間もあった。
それでも4話と10話だけで平安奈さんと生きていくには全く困らないだけの燃料をもらった。この過去は永遠と呼ぶに相応しい。だがいつだって未来は風のように僕らを呼んでるんだ。行くしかあるまい。

私は平安奈さんのコンプレックスとその卑屈さに4話からもうずっと虜であり、寄り添っていた。だからこそ【ノンフィクション】の歌詞と映像は本当に脳に染み渡るものがあった。

これであるカタルシスとはかように脳へ流し込まれるものなのだ。溢れ出る脳内物質と止めどない涙、これは現実であるか疑わしくすらあった。
頭の「ギャラクシー!」はアイデンティティの肯定、あの場であのセンターで自分の決め言葉をぶちかます。即ち着飾らない等身大の平安名さんがセンターに立てていることを証明している。あまりにも美しく愛おしい。
こんなにも重厚な性癖爆弾、果たしてこれは本当に現実なのだろうか。だがこれが現実、否ノンフィクション。

平安名すみれさんの姿を目に焼き付けて生きていくことを幸福と呼ぶ。
嬉しい、この出会いと奇跡に感謝。

あまりにもFantastic! そしてAmazing!
But this is ノンフィクション!!

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