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限界関係性オタクの【あのバンド】歌詞考察。一方通行の理解こそがこの曲の本質

【あのバンド】をご存知であろうか。そう【あのバンド】だ。ぼ山の代名詞である【あのバンド】である。
私はぼざろ曲ならば【カラカラ】が好きである。だからこそ話をしなければならない。
【あのバンド】はリョウの心中を綴った曲ではないという話を、だ。

この曲はぼっちからリョウへの理解を綴った曲である。故に歌詞の中身はリョウが描いたにしては矛盾のある内容となっている。
だがぼっちがリョウのことを理解したと思い、描いた。と解釈すれば矛盾ではなくなる部分が多い。そこにある一方通行の理解という点で圧倒的に解像度が高いという話である。
対して【カラカラ】はリョウが自身のことを綴った曲である。下の記事をざっと見てもらえば私のこの曲への捉え方がざっと分かるであろう。

これらを踏まえて見れば【あのバンド】はリョウの話をしているがリョウ自身の歌ではないということが分かる。ぼっちが理解し作った、リョウのイメージソングと言っても過言ではない。
それを以下より説明していく。

「あのバンド」という共通点

私はぼっちと山田の関係の真髄は歪な一方通行の関係性であると考えている。特にコミュ障特有の「分かった気になっている」感と一部の共感ポイントを見つけてそれをひたすら擦り倒すところはぼっちのぼっちたる所以、人間関係の下手さを感じられて好きである。

この曲はアニメでいうとこの4話、ぼっちがリョウに作詞を見てもらう回以降に生まれた曲である。
あの話でぼっちは初めてリョウの内面の一部と触れ合う。そしてバンド内でもとっつきにくかった彼女と触れ合いその人間性を知る。
そこでのアドバイスを経て生まれたのが【あのバンド】である。なぜあの話からこの曲の歌詞が生まれたのか。なぜぼっちがリョウのことを歌詞にしたのか。
そもそも根本的に抱くであろう疑問である【あのバンド】を作詞したのはリョウではないのか? こんな心情ぼっちは知らないのでは? そういった意見もあるであろう。
【あのバンド】の作詞者はぼっちである。これが答えだ。そしてこれは確実に2人で話した喫茶店の後に作られた曲である。この事実は絶対だ。

なぜぼっちの作詞であると言い切れるのか、理由は2つある。結束バンドの作詞はぼっち担当だからなどと品のないことは言わないから安心して頂きたい。
1つは歌詞の中身が核心に触れていないしリョウが書いたには矛盾が生じる部分があるから。そして2つ目は山田リョウはこんなことを歌にしないからだ(過激派頭カラカラオタク)

まず大前提として【あのバンド】はリョウの過去をモチーフにしている。これは間違いない。だが歌詞の内容はというとあくまでもリョウがぼっちに話した内容の範疇を超えていない。歌詞を見れば「居場所」と「孤独」にフォーカスしていることは容易に分かる。昔組んでたバンドが居心地悪くなってやめたところへ視点が向けられている。
逆に言えばそれ以上のことは描かれていない。なぜならばリョウはあれ以上のことをあの場でぼっちに話していないからだ。
だから一言で言えばこの曲の歌詞は薄っぺらい。それが考察オタクの琴線に触れた。

なぜそれだけの話をこれだけフォーカスしてこれだけを歌にしたのか。そこにはぼっちからリョウへの理解の形を見て取れる。それは寄り添いでもある。
ぼっちからしたらあの何考えているのか分からないリョウさんが励ましてくれたし自分を肯定してくれた、それが嬉しかった。
個性を殺さずなおかつリョウに応える歌詞とは何か、そうなった際にぼっちとリョウの共通点とは「居場所」がなかったことであり「孤独」であったことである。

ぼっちからリョウに対する「これなら理解できる」という要素、それが【あのバンド】の全てである。分からないことまみれのリョウさんのことでもここだけは理解る。この領域ならば寄り添える。それがこの曲の全てである。そういった共通点、理解を得てうきうきとこの曲を完成させたぼっちちゃんの姿はあまりにも可愛かった(幻影)
所々リョウが書いたにしては矛盾が生じるしぼっちの我が出ているところから推察できる。

実際喫茶店でリョウがした「あのバンド」から離れた話では孤独感と孤高を見て取れる。その行動に対して、そしてその後がどんな心持ちであったのかリョウはぼっちに話さなかった。
実態は違う、孤高でも強くもなかった。そこにはしっかりと迷いも後悔もあった、だからこそ救いが生まれた。【カラカラ】の歌詞を見ればそんなことは容易に分かる。
だがぼっちはそれを知らない。なので【あのバンド】は孤独と孤高を貫く強い女の曲となっている。故に背中を「押さないで」でも「触らないで」でもなく【押すなよ】なのだ。

ぼっちが作詞したから生まれたぼ山の真髄

リョウはね、不協和音に居場所を探したりしないし悲しい歌に救われたりしないし影であることは自己肯定でないといけないの。そういったことはぼっちのやることであり、事実ぼっちの心情が歌詞となっている【青春コンプレックス】においては【悲しい歌ほど好きだった】などのぼっちが作詞したであろう共通点を見出すことができる。

そう考えれば【背中を押すなよ】という歌詞も非常にぼっちの思想の詰まった歌詞であることが分かる。要するにトラウマを刺激するなよと。
列車がくるから、個性を轢き殺されたくないから背中を押すなよという解釈はとても解釈違いであると考える。だが解釈違いでいいのだ。リョウは深くを話していないので当然だ。
リョウは自らあのバンドから去り、誰にも背中を押されそうになっていないのだから。そして彼女は「背中を押す」存在ではなく「手を差し述べてくれる」存在、いとも容易く心へ触れてくる存在に救われた。
だからここで示唆される列車への飛び込みは本編でも見られたぼっちの過剰妄想の一種であると私は考える。

ぼ山には何があるのか、その答えもここに存在する。一方通行の理解である。似ている部分はあるし理解できる要素もある。だがあくまでもそれらは一方通行である。
ぼっちにとってリョウは自身のセンスに対する理解者であり、初めて「名前」をくれた人である。名前とは「結束バンド」の「ぼっち」という名前である。
故に歌詞に出る【孤独の称号】これは言うまでもなく「ぼっち」というあだなのことである。
ぼっちに初めてのあだ名を与えたのはリョウである。その事実に対するぼっちの捉え方、価値観を見て取れる。ぼっちにとって初めてぼっちであることがプラスに作用した例である。
アイデンティティの獲得がここにある。それを与えてくれたことへのでっけえ感情が見て取れるしあだ名でも名前でもなく「称号」である辺りからよほど嬉しかったのであろうなというところが伺える。
だがリョウはそのことに対して大きな感情を抱いている節は見られない。やはり一方通行である。だが、2人にも共通点は確かに存在している。

2人が真に共通している究極、それは「虹夏」に救われた。この一点である。だが2人は同じ存在に同じように救われているその究極の共通点をお互いに知らない。そこを歌詞にすればもっと互いの相互理解になる内容の歌が生まれるであろう。だがそれは生まれない。お互いにそれを知らないから。
巨大な共通点を知ることなく2人は「あのバンド」に関する小さく後ろ暗い共通点だけを抱いている。ここにこそぼ山の真髄が存在している。
そもそもこの2人は根本的に似ていないし分かり合えない。承認欲求モンスターであるぼっちに対してリョウのスタンスは【私のことなら私が推せる】だからである。
上記のような深い部分でリョウが理解されていない歌詞はぼっちちゃん特有、あるいはコミュ障特有の一方通行によるものだと捉えられる。同様にリョウもまたあの場で深くを語らなかったし自分から積極的に話すようなタイプでもない。
だから根本的にずっとお互いに独りよがりな理解なのである。

似ていないけど傍から見たら似たもの同士である。だがその実態はまるで違う。そしてお互いによくよく考えると深い部分を理解できていない、だというのにこの2人には理解者と理解された者という関係性が成り立つ。
この歪で脆い、紙一重の理解にぼっちは確実に救われている。リョウもまた結束バンドという居場所をぼっちに救われている。あと財布も。
ともすればいつだって瓦解しそうなこの光の関係性、それをあますとこなく表現しているのが【あのバンド】なのだ。

また、一方通行であるということで生まれる「解像度」がある。この絶妙なぼっちとリョウの関係性をこれでもかと歌詞に詰め込まれている。そしてそれはあくまでもぼっちなりの解釈で分かる範疇までの理解となっている。
私はでかい感情が相互する様よりもでかい感情がすれ違うことに美しさを見出す類の限界関係性オタクだからだ。
ぼっちからリョウへの「メッセージ」やでかい感情を叩きつけるのではなく「理解」という視点で描かれたこの歌詞は非常に興味深いものである。敢えて歌詞に矛盾の残る内容は考察の視点を変えれば納得のいくものとなる。

背中を押させるなよ

だからこそだ。だからこそやはりそうなるとリョウの感情のリアルを描いた【カラカラ】のありがたみが染み渡るというわけだ。誰にも語られることのない本心がとんでもないくそでか感情であったと。
甲高く響く笑い声のようなあのバンドの話もみんなは知らないあのバンドの曲も些事に過ぎない。リョウが抱いているのは「その先」の話だからである。こういったところで本質的なポジティブさを感じられるのもまたぼっちとの対比構図として熱い。

【あのバンド】で描かれているようなさっぱりと割り切った生き方も思考もできていないし、していない。いつだって思考はカラカラと騒いでいるしもっと要領の良い生き方があることを知っている。
このようにぼっちから見たリョウと本人の思考とで対比が見られるのが非常に好評価である。このギャップ、認知のズレこそが限界関係性オタクを駆り立てる。

それは本当に踏切の音か? この曲を作詞したのが山田リョウなのではないか? 列車がくるから背中を押すなというのは何の死を示唆しているのか?
そんな薄っぺらい考察は必要ない。歌詞の上辺をなぞりその言葉の意味だけを見た考察で真理へ到達することはできない。
ならば答えはどこにあるのか。そう、その通り「関係性」だ。いつだって限界関係性オタクは「関係性」だけが絶対であり世界なのである。私の放つ音はここにある。

それでも、お前にはまだつんざく踏切の音が聞こえているか?

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