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限界関係性オタクの【カラカラ 結束バンド】歌詞考察。「影でいられる」という自己肯定

きっとどこかの誰かみたいに生きれない
だから 私のことなら私が推せる
カラカラ騒ぐ思考飛ばして
前借りしてるこの命を使い切らなくちゃ

カラカラ/結束バンド

この曲、山田から虹夏ちゃんへのくそでけえ感情が籠もりすぎていて流石に初めて聴いた時山田ってそうなの? と頭を抱えた。

考察というよりも限界関係性オタクのうわ言に等しくもある。これより先は歌詞に出てくる「君」だとかそういったものが誰を差しているのか。それは【虹夏】だ。言うまでもない。そうだろう。そうだと言えるだけの材料が揃っているからだ。


影で「いさせてくれる」ことへの感謝

【君が眩しいから私は影になれる】

まず最初にここでは「君」のことを光だからだとか輝いているからといった表現でなく「眩しい」と評している。この眩しいという言葉から私はネガティブな感情を感じる。

同じく光か影かで言えば影であるぼっちを光へと引っ張った虹夏に対して、山田は敢えてそのまま影でいられる。と言っている。影であるからこそ光へ憧れていて、そちら側へ向かおうとするぼっち。
光がいたから自分も輝けたのがぼっちであり、山田は対して敢えて影であることに「影になれる」と表現している。
ある意味でこれは作品のコンセプトそのものに対する反逆でもある。敢えてそうしない。影であることにマイナスを抱かないしそうでなくなろうともしない。だがこれは反逆であるが逆張りではない。自己肯定だ。

「影になれる」と聞くとネガティブなイメージがわくかもしれないがこれは自己肯定である。自分が光側でないと自覚しているしそうであることも別に求めていない。その気になれば合わせられるだろうがそんなものは面白くないからしたくない。自分がろくでなしだと自覚しているからこそ、そういさせてくれる存在へ感謝しているのだ。
周囲をまとめたりだとか引っ張ったり、そんなバンドをやる上でかかせない光の役割をやらなくてよいことに対して感謝している。 

本質的な目的を忘れて売れるための音楽が嫌でやめた前のバンドと同じように、うわべの人間関係を取り繕わなくて良い。元来の影である、まっすぐな自分自身でいられる。影になれる。この心地よさを見て取れる。
そんな山田だからこそ、ぼっちの書く本物の歌詞を肯定することができる。同じ影の側だから、それを自分の個性として捉えているからぼっちのそれもまた否定しない。

そして同時に「眩しい」というその存在がただ自分にとって都合の良い光であるだけではない、羨望の感情が入っていることも確か。

そんな眩しい光の生き方が正しい、簡単な道も遠回りしたりする自分の生き方は非効率的だと分かっている。あんな光のように愛されたほうが無双的だとちゃんと分かっているのだ。
だからこそ【どうせどこかの誰かみたいに生きれない】それこそが前述した眩しさのなんたるかである。【どこかの誰かみたいに】生きれたら楽だと思っている。だから「眩しい」
感謝はしているがそちら側へ行こうとは思わない。でもそんな風に生きられたらという想いがないことはない。こういった割りきれない"特別"の関係性を喰らい限界関係性オタクは生きている。

騒ぐ思考を開き直れないまま連れて行くしかない

開き直れない、この言葉を聴いてすぐにある予感がした人間はおそらくこちら側の限界関係性オタクであろう。その通り、あなたが思っている通りだ。

意識しないと頭を揺さぶられた時にカラカラと鳴る思考を飛ばせない。今この時間がいつか消えてしまうことを知っている。

具体性のなく、薄っぺらい言葉を恥ずかしげもなく開き直って言うことができない。たった一言【青春でなにが悪い】といえば終わる葛藤を抱えたまま眠り、そんな騒ぐ思考を飛ばさなければならない。カラカラと騒いで仕方ないから飛ばす必要がある。そのまま【鳴り止まなくて何が悪い】と言えない女なのだ。
答えもなければ正解もないのだからなにが悪いと開き直ってしまうのが一番簡単な道だと分かっている。でも自分は【どこかの誰かみたいに】そういう風に生きられない。【簡単な道も遠回り行き止まり振り返り】生きていくしかない。

だから【君に会いにいく】のだ。

本編時空におけるあの日のように、何度でも屋上へ迎えに来てくれるなんて限らない。光はみんなに愛されて無双的だから。だからその光が自分の前から消えてしまう前に、影でいさせてくれる間に、【いつか消えてしまう前に】
いつか消える儚く美しい時間を人生の「前借り」と称するのはあまりにも感情がでかすぎやしないだろうか。
幼くてもいい、学生というモラトリアムの中を生きている。大人になってほうが、愛されるように生きたほうがいいと分かっているがそうは生きれない自分を連れて生きる。

そしてこの自己肯定の本質は「そう考える自分」でいさせてくれる存在への愛と依存と僅かな、だが確実に確かに存在する憧れとで構成された曲である。これが限界関係性オタクに刺さらずにどうする。

一方通行の重なる感情

この本質的な一方通行の形、それはそのまま結束バンドのベースとしての山田リョウに当てはまる。そのルーツ、それはアニメ4話にも出てきた屋上のシーンだ。

向こうは覚えていなかったとしても自分の中でその出来事はあまりにも大きなものと成っているあのイベント。あるいはこちらの思う感情のでかさと向こうの抱いている感情とのでかさのギャップだ。
バンドそのものが嫌になっていた山田の「なぜ」に対するアンサー「だって好きだから」これである。
そこに明確な理由は存在しない。好きだからいいじゃん、好きなんだからしょうがないじゃん。その開き直りの精神、それこそが光。
【机の上には無い僕らの答え】が【スカート揺れる教室の済でずっと抱きしめていた夢】が重なった瞬間だ。ここにこそ世界の真理、宇宙の本質というものが存在している。
ここに存在する二人の温度差がいかほどのものか、どれほどの感情のでかさの差異があるのか。まだ私はその核心を知らない。まだ原作もアニメも全然見ていないからだ。

悩んだり不安になったりする最後の背中を押せるのが自分であり、そんな自分を好きだと言ってくれた光へのでかすぎる感情。
この曲は限界関係性オタクスターターセットのような存在だ。

ここまで読めばこのアニメの正解が何か分かるであろう。そう、その通りだ。いつだって限界関係性オタクの生きる道の全ては【関係性】に集約している。これからどうなっていくか、どう進化していくかもうあなたは自分の道が見えているはずだ。

────やれるな?

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