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大人とは何なのか。

大人になるということはどういうことか。青二才の少年・青年が音になる瞬間はいつ訪れるのか。大人が大人たらしめているものはどこにあるのか。

22歳の大学4年ということもあり、「自分とは何か」ということとともに「大人とは何なのか」について自分なりに考えて見ることも多い。

多くの人は、自分のことを「10歳だから」と言って、まるで心だけは少年であるかのように、まるで大人になるということは劣化であるかのように語るが、個人的にはそんなこともない気がしている。

大人になったからといって自分のことを取り繕うのはよくないことだとは思うが、逆にずっと子供だと主張するして自分の弱い部分を正当化することもまた同様によくないことのように思える。

「大人とは何なのか」

大きな抽象概念であるが、そのことについてしっかり考えられるのもここら辺がラストチャンスなので、自分なりの考えを深めていきたいと思う。

折り合い

「大人になるということは、子どもの時の疑問にてきとーな折り合いをつけること」 - 石黒一夫

ある記事を見ていた時に、「大人とは何か」について話している場面があり、その中で出て来たこの言葉が今でも僕の中で強く印象に残っている。この言葉は、強い印象とともに僕に大きな問いも授けた。

てきとーな折り合いをつけることが果たして大人の要件なのだろうか。てきとーな折り合いをつけるというと悪いことのように聞こえるが、それが本当にダメなのことなのか。“適当”ではなく、“てきとー”なことがいけないのだろうか。

考えれば考えるほど文脈がわからないために疑問が尽きなくなってしまうが、僕が一番最初に感じたのは「諦めることが人を大人たらしめる」ということだった。

それは良い意味でも悪い意味でもあって、自分のやりたいことに嘘をついて諦める時もあれば、全てのことに注力できるほど人生は長くないことを知り、ある一つのことに集中するために欲望に折り合いをつけて諦める時もある。

僕はこの2つのうちの後者が「大人」の重要な要件だと直感的に感じた。

「折り合い」とか「塩梅」とか「落とし所」とか、それらの言葉だけ聞くと負の印象が強くなってしまうが、僕は個人的にそこの折り合いをつけられるならつければいいと思っているタイプである。

そこに折り合いをつけることができるのに、わざと強がってつけないのは時間の無駄であり、それはその人のやるべきことではないということを表している証拠であると思っている。

というのも、そう思うようになったのも尾崎豊といった「天才」と言われた本物の表現者の姿を見てしまったことに大きな影響を受けている。

僕が個人的に尾崎豊を生で見たことはないのだが、その周りにいた方々の話を聞いていると、その輪郭くらいはぼやっと見えてきて、「本物の表現者とはどういうことなのか」の本質を少し触れられた気がしている。

彼らのような本物の表現者は今流行りの「やりたいこと」という次元にいなくて、彼らは表現をしないといきていけないから表現していたように感じるし、自分が昔から抱いていた素朴なある疑問に折り合いをつけられなかったから表現するしかなかっただけのように見える。

表現せずにはいられなくて、表現することで少しだけ自分を保つことができて、それでも足りなくて時には薬物に手を出してしまったり、自分を許せなくなったり、世の中に価値を見出せなくなったりして死に至ってしまうこともある。

そんな表現しないとやってられない表現者と、折り合いがつけられるのに自分の意地だけで表現している人たちのどちらが強い力を持っているのかを比べたら一目瞭然だろう。

だからこそ、僕はそこにその人の時間を使う必要は全くないと思っているし、折り合いをつけられるところは折り合いをつければ良いと思っている。

時間は未来から過去に流れていると考えると、生きるということは常に可能性を狭めていきていくことになるので、当然常に多数の選択肢を捨てていくことになるし、ほとんどのものに折り合いをつけていくことになる。

そこには折り合いをつけてしまうことすらもよくないこともあるかもしれないが、つけられてしまった以上、変にくよくよする必要はないと思っている。

それに折り合いをつけることに限界が来た時に、そのことに対して折り合いをつけることができなくなってしまった時にまた一から考えればいいだけで、折り合いをつけられてしまうということは今ことのタイミングそのことと向き合うのに適切なタイミングではないことを告げているように感じてしまう。

最後に本当に残るかどうかはわからないが、折り合いをつけられるものには折り合いをつけて、いい塩梅になるものはいい塩梅にして、落とし所があるものは落ち着く場所に収めてしまって、それでも折り合いがつけられなくて残っているものと向き合うことが重要なのではないかと考えている。

だからこそ、折り合いをつけることは非常に大切なことだと思うし、今やるべきことと向き合うために「折り合いをつけること」は非常に大事なことだと思っている。

「折り合いをつけられないものだけと向き合い続ける」

それが大人のやることであり、それ以外のものを捨てられる人が大人な人なのではないかというのが僕の最近の結論となる。

大人・子供の区切りに意味はないと思うが、自分の中での大人像を考えることで自分の進むべき道が見えてくる。「可能性を捨てられる大人」になりたいと思った22歳の夏の一夜のことであった。

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1997年の日本生まれ。