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「無」を使い、「無」で通じ、「無」を楽しむ

最近、鈴木大拙さんの「禅」や「無心ということ」であったり、中国仏教的な考え方である「老師」を読んだりしているせいか、「無」であったり、「空」であったり、「道」を考えさせられることが多い。

僕の完全な主観でしかないが、どれも「無」を出発点であり原点としており、「無」でいることを是としている気がしている。「無」であるからこそ、ありのままに物事を受け入れることができるし、全てのものは「無」であるから私たち自身も「無」であるからと考えるからこそ既成概念や価値観に従って生きている自分を客観的に見つめることができる。

般若心境というたった262文字のお経の中には「無」という文字が21時も入っており、その他の言葉の中でも「無」であること、「ないこと」というのがなんども唄われている。

インド発の仏教、それによって様々な影響を受けてきた日本や中国の思想がいかに「無」ということを大切にしていたかということを最近、つくづく感じさせる。そして、その度に「無」とは何なのかということを考えさせられる。

他の人が何というかわからないが、僕が今いるエンタメ業界・芸術業界も基本的にはほとんどのものが無であると思っていて、それであるから意義があると思っている。「無」は悲観的な言葉ではなく、むしろ肯定的な言葉であり、「無」であるからこそ使える・楽しめるというものも多い。

例えば、小説や写真を考えてみても「無いこと」が私たちを楽しませてくれていることがわかる。小説には具体的な絵がなく、写真には具体的な音や匂いがない。「ない」から人間は自分でそれを補っていったのだが、小説も写真も自分自身が作り上げた「無」の部分を楽しんでいる。

ご飯やお味噌汁などを入れるお椀も同じように、容器の中が「無」だからそこに何かを入れることができるし、実質的には私たちはその「無」の部分のみを使っている。

そう考えてみると、人間が日常に使っているものは「無」の部分を使っているものが多く、人間が日常的に使っている言葉の多くは概念だけに存在する実質的には「無」の言葉が圧倒的に多いことに気がつく。

物の「無」の部分を使い、「無」の言葉で話し、娯楽や芸術の「無」の部分を楽しんでいる。

小説も写真もお椀も娯楽も芸術も、究極的には「無」なのだが、「無」であるからこそ意味がある。

「不足=悪」と知らない間にすりこまれてきた現代の日本人には肯定的な無は受け入れ難いかもしれないが、長年受け継がれてきた文化を見てみるとその片鱗が随所に見えるので実は現代の日本人との親和性も高いのかもしれないと思う。

「無いこと」を恐れてはいけない。しかし、「無いこと」を誇ってはいけない。「無」の受け入れ方がその人の大きさを表すのかもしれないと感じた気今日この頃であった。

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1997年の日本生まれ。