ガンの告知

「知るということは根本的にはガンの告知だ」

これは、累計発行部数400万部を超える空前の大ヒットを飛ばし、2003年の新語・流行語大賞も受賞したベストセラー『バカの壁』の中の一説です。

著者の養老孟司さんが勉強する意味を1年間考えてきて結論づけたこの「知ること」の意味ですが、僕は教育に限らず、全てのもの後のにも適用できる可能性があると思いました。今回は、このガンの告知を元に私たちが普段何気なく使っている価値について考えてみようと思います。

価値とは何か?

私たちは、何かを決める際に「価値があるかどうか」をとても気にします。化粧品を買う時、何かのイベントに参加する時などなど様々なシチュエーションで価値のことを考えています。その一方で、「価値と何か」を突き詰めて考えた人はあまりいないのではないでしょうか。

よく使われているものの、その実態についてあまり考えられていない価値ですが、Wikipediaには以下のように書かれていました。

価値(かち)とは、あるものを他のものよりも上位に位置づける理由となる性質、人間の肉体的、精神的欲求を満たす性質[1]、あるいは真・善・美・愛あるいは仁など人間社会の存続にとってプラスの普遍性をもつと考えられる概念の総称。 
 [1]カールマルクス「資本論」

価値のような抽象概念の時はあるあるですが、抽象的な語句の説明も抽象的すぎて何を言っているかあまりわかりません。ですが、上の文章から考える限り、

①何かより秀でている性質を持っているもの
②欲求を満たしてくれるもの
③人間にとって良さそうなもの

が価値が高いと、この中では言われているようです。

しかし、僕はこのような堅苦しい言葉よりも、養老孟司さんの「ガンの告知」の方が価値をシンプルかつわかりやすく説明していると思っています。教育における「知る」ということも、エンターテインメントにおける「楽しむ」ということも、全ての価値の基本的には考え方は「ガンの告知」で十分通用すると思います。

世界の見え方が変わる

そもそも、ガンの告知とは何なのかということを知らない方のために説明すると、ガンの告知というのは「自分がガンになり、余命数ヶ月しかないと宣告された状態で見た桜は、今まで見たきた桜と同じでも違って見える」という話です。要するに、世界の見え方が変わるということです。

どんなにいいとされている本でも自分が何も消化できなかったらそれは自分にとって価値がないというように、一見無駄なように見える娯楽が生きていくための大きな希望を与えているように、僕は教育における「知る」ということも、エンターテインメントにおける「楽しむ」ということも、その人の中でいかに世界の見え方が変わったかということが価値に繋がるのではないのかなと思っています。

デザインの勉強をして、デザインの考え方や表現技法などを知った時に街中にある広告や建物の見え方は変わる...誰かのコンサートに行き、その中で非日常的なエンターテインメントを楽しむことで世界が少しだけ明るくなる...こんな変化をどれだけしたかが価値の基準になるのではと思っています。

拡張と再定義

そう考えると、私たちのやれることは大きく分けて2つしかありません。

1つ目は、「外側を見せること」です。今まで知らなかったことを知ることで、その人の物の見え方は変わってくるので、外側を見せることは世界の見え方を変える大きなきっかけになるでしょう。

2つ目は、「違う角度を見せること」です。私たちが何かを知っていると言っても、それは大抵の場合、1つの側面しか見られていません。今まで知らなかったことを知る以外にも、既知の事柄について違う角度の見方を知ることで、また違って世界が見えてくるキッカケになります。

外側に拡張させるのか、もしくは内側を再定義するのか。芸術作品に置き換えると、時代の文脈の延長線上にあるものが外側に拡張させる作品であり、その文脈に対してアンチテーゼを唱えるものが内側を再定義する作品ということになると思います。

この2つの軸で考えると、価値が高いもの・サービスを世界に届けるために、自分は何をやっていけばいいのかがシンプルにわかると思います。世界をシンプルに見るのは危険なことも多いですが、何か行動に結びつける際にはシンプルな方が有用です。

価値の優劣

あくまでも、価値が高いというのは個人の中での変化が全てなので、一般的に価値が高い(変化の総和が大きい)ということと自分にとって価値が高いということは全く別の話になります。また、個人の変化の尺度も人それぞれなので、業種が違う2つのサービスを比較することも難しいでしょう。

100人が10変化したサービスと10人が100変化したサービスのどちらの方が価値が高いのかと言われれば、そこは比べようがありません(変化の上限下限はそれぞれマイナス無限大から無限大まで)。

ただ、変化の量が大きい方がサービスを受ける側も変化を実感しやすいのでより価値が高いと感じやすくなりますし、感謝の気持ちを伝えていただいたりなどフィードバックを受ける可能性が高いので、サービスを提供する側も“価値が高い”ように感じでしょう。

この場合、どちらも価値が高いのだから100人が10変化したサービスより10人が100変化したサービスの方が価値が高いという帰結になってしまいそうですが、100人に与えた10の変化がその後レバレッジがかかって100になったり、1000になったりする可能性があると考えるとこの時点で一概にどっちが価値あるかとは言えないでしょう。

結論としては、価値が高いかどうかなど個人の尺度であり、アドラー的に考えるとそれは「他人の問題」でしかないので、こちらが考えることではないでしょう。私たちがやれることは、人々の変化が大きそうな領域に向かって拡張させるか、ボトルネックになっている既知のものを再定義するのかしかないのだと思います。繰り返しますが、そこに優劣はありません。

エンタメの時代

これからの時代は、AIなどのテクノロジーが発展し、一人あたりの生産性が上がってくるので働く必要がなくなり、余暇の時間が増えていくと言われています。そのため、エンターテインメントの需要が高まり、これまで意味のないとされている娯楽やアートの価値がより高まってくると言われています。

需要が高まれば、そこにたくさんの人が集中してきてエンターテインメントやアートはレッドオーシャンになっていきます。その中で生き残るサービスはどのようなサービスかを考えると、やはり「いかに見える世界を変えたか」に尽きると思います。

そして、現代は時間に対する意識が強いこと、人々の許容できる時間が短くなっていることを踏まえると短時間でより変化の量が大きいサービスが生き残るのではないかと思っています。例えるならば、花火のような一瞬で魅せられるものが時代的にあっていると思います。ただ、その反面、多くの人に少しずつ変化を与えるようなサービスも需要があって、人々の生活に溶け込めさえすれば、十分生き残れる可能性はあると思っています。

「いかに世界の見え方を変えるか」

まだ自分の中でまとまりきっておらず、論理の飛躍や思考の抜け漏れがあったと思いますが、この考え方があなたの既知の考え方を再定義していただくキッカケになれば幸いです。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

1997年の日本生まれ。