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「My 1st Stage」あらすじ


岡本 澄人 Sumito Sam Okamoto

あらすじ

1956年 北海道札幌市生でまれ、定山渓温泉で産湯に浸かり、北海道の乳製品で大きく育つ。(この年代生まれでは規格外の身長184cm)
1964年 雑誌小学2年生に載っていたホンダF1参戦発表記事でF1の存在を知り、頭の中に回路が組み込まれてしまい、それから大河ドラマを見る様にF1をフォローし続ける。

この年、明治マーブルチョコレートの懸賞でホームレーシングカーセットが当たり、スロットレーシングカーにフックされる。
父親がキャンプ好きで、スバル360で北海道中を連れ回される。

1967年 10才の時に父親の転勤で東京へ引っ越し、麻布で育つ。

1969年 父親のキャンプ好きが高じて、車で行くファミリーキャンプの普及団体、日本オートキャンプ協会を立ち上げたことで、キャンプが家業となる。

白金サーキットへ日参してスロットレーシングカーにどっぷり浸かり毎日レースに明け暮れるが、その道すがら、ストックカーレース用のレーシングカーを作っているスピードショップを見つけてしまい、日参先がこのハイパーフォーマンス・エンジニアリングに変わる。(経営者はレーサーのロバートダンハムと山西喜三男)








1970年 ハイパーフォーマンス・エンジニアリングに、後にCanAmカーや1992年デイトナ24時間レースに優勝したNissan R91CPなど数々のレーシングカーの空力デザイナーとなる鈴鹿美隆さんが、新卒メカニックとして入社して、彼に可愛がってもらう。(鈴鹿さんは1971年に渡米)

スロットレーシングカーを卒業したお兄さん達がゴーカートレースを始めたことを知り、仲間に混ぜてもらってゴーカートへステップアップ。

日本に居てはF1に触ることも乗る事もできないと思い、高校卒業後はイギリスに渡ってレースの世界に飛び込もうと準備を進める。
1975年 渡英直前になって急性盲腸炎になって入院し、隣のベッドの人から「君はイギリスではなく、ロサンゼルスに行きなさい!」と告げられ、これがきっかけであっさりレースを捨てて、行き先をロサンゼルスに変更する。
1976年 バックパックを背負いほぼ無目的でロサンゼルスにやって来て、最初に一口空気を吸った瞬間、「ここだな!」と感じる。
英会話学校へ通うが学校嫌いはアメリカでも相変わらずで、ドロップアウト後、グレーハウンドバスで旅に出る。
ロサンゼルスに戻って、5年前からここに来ていた同じ歳のMike原口と知り合い、日系移民の歴史、アメリカでの暮らし方を彼から習う。この頃、マイ・ファースト・カー1965年のAustin Mini Cooper Sを手に入れる。この車がボロでよく壊れたことで友達が増え、車は友達に助けられながら自分で直すことが当たり前だと思うようになる。

この夏、日本では「アメリカ西海岸の本」と雑誌「ポパイ」が出版され、西海岸ブームが勃発したことで、翌年、若者達が大挙してロサンゼルスに押し寄せる。
1977年 ロサンゼルスのツアーガイドが不足したことで、このバイトに有り付き
、77年、78年の夏はディズニーランドに日参することになる。
ある日、エレクトリカル・パレードの準備風景を見ていてディズニーランドのオペレーションの秀逸さに気づき、「これを内側から勉強してみたいな」と思う。(この時に思っただけで、すぐに忘れてしまう)

1979年 母親から「東京にディズニーランドを作る計画がある様で、人を募集しているよ」と知らされ、数年前の思いが蘇り、オリエンタルランド社に応募する。
1980年 オリエンタルランドの面接の際に、英語力のチェックでお目にかかったディズニーのエグゼクティブに応募に至る経緯を話すと、「それなら君は明日からここで働きなさい」とその場で雇われてしまう。

「ずうっと住み続けたい」と思うほど好きだったロサンゼルスに別れを告げ東京へ戻ることになり、アパートを引き上げに一旦ロサンゼルスへ戻る飛行機の中で鈴鹿さんと再会する。飛行中に10年間の溝を埋めるが、当時はeメールも携帯電話もない時代で、鈴鹿さんはロサンゼルスで新生活を始めるタイミングだったので、お互いに渡せる確実な連絡先がなく、その後彼とは再び音信不通になる。

東京ディズニーランド・プロジェクトの運営計画部に配属となり、最初に受けたディズニー哲学のレクチャーでウォルト・ディズニーの偉大さを知り、彼の理念通りにやったらその通りに成功するのか、徹底的に実践してみようと決心する。
東京ディズニーランドのオープンまでの3年は開業準備でマニュアルの翻訳、改定やトレーニング計画の立案などを行い、 1983年のオープン時は運営部ウエスタンランド・スーパーバイザー。

1984年 子供の頃からのマイ・ドリーム・カー1970年 Lotsu Elan S4 SE Fixed Head Coupeを手に入れる。この車がめちゃくちゃ壊れるので、修理を手伝ってくれる友達との友情が深まり、車の知識、修理の腕が上がる。この頃の悪戦苦闘を書いたのが「我ロータスとかく戦えり」。(Noteで公開予定)
その後ファンタジーランド、トゥモローランドのスーパーバイザーとして、日々のオペレーション、シンデレラ城ミステリーツアー、キャプテンEOのオープニング、エレクトリカルパレードなどのプロジェクトに携わる。
1987年 広報室へ移動になり、東京ディズニーランド5周年プレスイベントのオペレーションなどを行う。その後、商品部へ移動となり、ディズニー本体がオリジナルの理念と違うことを始めたこともあり「もうそろそろディズニーランドも卒業だろう」と思い、1989年末に約10年間勤務したオリエンタルランドを退社。この間に結婚し娘を2人儲ける。

この年、本屋で「マーフィーの黄金律」という本を立ち読みし、これに書いてある法則を知らぬ間に使ってLotsu Elanを既に手に入れていたことが分かり、それからマーフィーの成功法則に従って生きることにする。
友人から「今、Macのコンピューターを買わないと人間ではない!」ぐらいのことを言われ、マイ・ファースト・コンピューターApple Macintosh Plusを使い始める。

1990年 日本はバブル絶頂期で、100を超えるテーマパークプロジェクトが計画されており、成田市に日本をテーマにしたした「ジャパンビレッジ」のプロジェクトを進めていた、日商岩井「成田ジャパンビレッジ推進室」へ転職。コンセプトデザインを元ディズニーのデザイナーフレッド・ホープ親子のThe Works社に依頼し、彼らと作業を進める中でウォルト・ディズニーを信奉する考え方とMacコンピュターで意気投合する。

バブルに陰りが見え始め、たった9ヶ月で成田ジャパンビレッジのプロジェクトはキャンセルとなり失職してしまったところ、The Worksから「一緒にやらないか」と誘われ、1990年9月家族を連れてロサンゼルスに復帰。(これは完全にマーフィーの法則の効果)
テーマパーク・コンセプトデザイン会社「The Works」 の副社長としてテーマパークデザイン、コンテンツ制作、運営コンサルティングなどを行う。

1992年 この頃、Macコンピューターが進化して来たことで様々なフォーマットの資料をサーバーに収め、インターネットを介してそれにアクセスすることが可能になったので、テーマパークプロジェクトの進行に伴って発生する膨大な資料を管理するためのソフトウェアー「The Works Book」を開発を始める。

東京への出張帰りに成田空港からロサンゼルスへ戻る飛行機に乗ると、鈴鹿さんが前回の12年前と全く同じ状況で僕の前の席に座っていて再会。それから再び彼とのお付き合いが始まる。

Lotus Elanのレストアを開始し、通勤の足に1969年 Porsche 911Tを購入。

アメリカの永住権を取得。 

1996年 フレッド・ホープとライセンシングビジネスを行うConnect Productionsを設立し、日本企業Indexとビデオテープ・マーケティングのビジネスを立ち上げる。The Worksは、テーマパークビジネスがディズニー、ユニバーサルの2強に集約されて行くのを見越してフェードアウト。ウォルトディズニーの理念に沿ったテーマパーク運営ノウハウが、ディズニー以外のテーマパークでは成立し得ない事を知る。
これまで培ったプロフェッションを失ったことと、長年の夢でペイントと配線以外はほぼ全て自分でやったLotsu Elanのフルレストアが完了してしまったことで、心にぽっかり穴があき、40歳にして最も苦手な海に漕ぎ出しサーフィンを始める。

2000年 ヒクソン・グレーシーの東京ドームでの格闘技試合「コロシアム2000」の契約、マネージメントに任される。(ヒクソンとはサーフィン、アイルトン・セナの話題で仲良くなったが、どちらかというと格闘は嫌い)
Connect Productionsが日本の携帯コンテンツ会社Indexに買収され、USA Index Corporationと改名。フレッド・ホープはミドルライフ・クライシス後、絵描きになるためビジネス界から離脱。

アメリカにおける携帯コンテンツ・ビジネスのマーケット・リサーチやビジネス・デベロップメントを始める。その傍、 お蔵入りしていた「The Works Book」のコンセプトを使い、映画制作プロジェクトの管理に特化したソフトウエアー「Cinnamon」を開発する。この時にロゴとユーザーインターフェイスのデザインを依頼したのをきっかけでグラフィック・デザイナーのTom渡辺と知り合う。(その後、ボンネビルのTシャツなど、ほとんどのデザインを彼にしてもらっている)
2003年「Cinnamon」を映画コンベンション、アメリカンフィルムマーケットで発表するが、アメリカ社会も映画業界もデジタル化、インターネット依存がまだ始まっていなかったため価値を理解されず、不成功のまま再びお蔵入りとなる。
2004年 鈴鹿さんから「ボンネビルへ一緒に行かない?」と誘われて、初めて最高速イベント(10月のワールドファイナル)を見に行く。
その際に鈴鹿さんが「時速500キロにチャレンジしたい」と言い出し、鈴鹿さんの恩人でレーサーのジョン・モートンを巻き込んで「F-5プロジェクト」を立ち上げる。

F-5プロジェクト、鈴鹿さん、ジョン・モートンのインタビュー・ビデオ
https://youtu.be/fcLIpNm_N5c 


Jhon Mortonが操縦する飛行機からのボンネビルソルトフラッツ・ビデオ

https://youtu.be/Bn4eT5Hj7Ug 


Porsche 911Tのレストアを始める。
2005年 ボンネビルを舞台にしたアンソニー・ホプキンス主演映画「世界最速のインディアン」が公開される。
この頃、運営方針が変わってしまったディズニーランドを惜しんで、ウォルト・ディズニーが何を思ってディズニーランドを作り、どうやって運営されていたかを綴った「ディズニー原理主義」を書く。(現在、改訂版を出版準備中)
2007年 鈴鹿さんが空力デザインをしたNissan 35GTRがデビューしたので、「F-5プロジェクト」のベースカーを当初予定していたNissan 33ZからGTRに変更して各所でプレゼンするものの、ボンネビルの認知度は低く、最高速挑戦に対して理解を示すスポンサーが現れないままペンディング状態が続く。
この頃、OPD社のメガネ無しで3Dイメージが見える技術をパチンコ台に使うプロジェクト(https://www.p-world.co.jp/machine/database/2297)や、CGIソフトウエアー販売、アクセサリー輸出など様々なプロジェクトに関わる。
Indexのアメリカ撤退に伴い、会社名をConnect Productionsに戻す。
iPhoneを発売初日に手にして、「これで時代が変わる!」と思い、お蔵入りしていた「Cinnamon」の復活プロジェクトを企てる。この時、実際に「Cinnamon」を使って映画製作を行うプランが生まれ、その題材としてルート66を旅するロードムービーのプロットとシナリオを書く。これが後の小説版「ザ・マザーロード/ルート66」になるが、映画のプロジェクトは流れてしまう。

鈴鹿さんと2回目のボンネビル訪問。
2007 Bonnneville World Finalビデオ
https://www.youtube.com/watch?v=pJR0UoHk5oA&t=55s


2008年 東京ディズニーランドで一緒だったShige菅沼さん(彼はディズニー側)がオーナーのMooneyes USAのウエッブサイトをTom渡辺とリニューアルする。Mooneyes Teamに加わって毎年夏のボンネビル通いが始まる。

Porsche 911Tのレストア完了。

アメリカ市民権を得る。

2010年 「ザ・マザーロード/ルート66」の映像化がダメなら小説にしようと、ストーリーを確認するため、シカゴからロサンゼルスまでルート66全線を一気に走ってみる。
スケートボードで転倒して右腕を痛めてしまい、サーフィンができなくなる。
ミドルライフ・クライシスが起こり始める。

2012年 この年のボンネビルはMooneyes Teamとは別に、Tom渡辺と某代理店駐在員のYuma坂田とキャンプを主目的に物見遊山の気分で参加し、荒野でのキャンプの良さを再認識する。

ボンネビルの塩の上で特攻服を着た日本人ヤンキー2人組を見つけてしまう。姫路からやって来た彼らが、「来年バイクで出場する」と言うので、本当に出場するなら、僕たち3人でサポートしようと言うことになる。
独身生活が始まる。

2013年 衝動的にeBayで1973年 VW Camperを購入して、この車の引き取りのためワシントンD.C.から一旦シカゴへ寄って、ルート66でロサンゼルスまで戻る旅をする。このVW Camperをレストアして、ボンネビルに乗っていく。(帰路でエンコ)

この夏、姫路の2人組のボンネビルを密着取材したドキュメンタリー、「The World’s Fastest ヤンキー」をプロデュースする。(完成するも音楽ライツの問題で未公開)
彼らと共にボンネビルでの一部始終を経験した事で、出場の敷居が低い事を知る。スポンサー有りきでしか始められない設定だった「F-5プロジェクト」を軌道修正して、まずはポケットマネーでボトムエンドから始めるため、Tom、Yumaと3人でF-5 Spirits Racing Teamを立ち上げる。その後、以前から友達だった長崎県でシャーリーママというカスタムカーショップを営む入江くんもクルー・チーフとして参加。

シャーリーママ紹介記事
http://orm-web.net/garage/-shirley-mama.php
翌年のボンネビル出場を目指して1992年のMazda Miataに1987年のMazda RX-7から下ろしたノンターボの13Bロータリーエンジンとトランスミッションを乗せたバックヤードスペシャルを作り始める。

The world's fastest Miata製作ビデオ
https://youtu.be/RpsERZU7jjc (音楽ライツの問題でサウンド削除)

2014年 Goerge中川さんのSkylight Racing Teamとジョイントしてスピードウィークに出場するため、やっと形になったMiataをボンネビルへ持って行くが、雨が降ってソルトフラッツが湖になってしまい、イベントは中止。
その後、燃え尽きて鬱状態になり、何もしないで過ごす。
2015年 この年もボンネビルは雨で塩が固まらず、中止になる。 
友人のMartin高橋の紹介でギタリストのJimmy桜井と知り合う。Led Zeppelinのジミー・ページのギターを弾く彼は、僕がフィクションで作り上げた「ザ・マザーロード/ルート66」に登場するキャラクターそのもので、噓から出た誠がその後どう展開して行くのかを知りたくなって、彼のドキュメンタリーを取り始める。

Shu ha ri 守破離 Vol.1ビデオ
https://youtu.be/tYvbyF1QzMI

Shu ha ri
守破離 Vol.2ビデオ
https://youtu.be/qF3Ds0RK5TA
Shu ha ri 守破離 Vol.3ビデオ (音楽ライツの問題で削除)

Shu ha ri 守破離 Vol.4ビデオ
https://youtu.be/myMGvzfNjwk

2016年 ボンネビル・スピードトライアル初出場。厳しい車検の洗礼を受けたものの、皆さんの絶大なサポートのおかげで、丸3日かかって合格し、時速215キロを記録。

ボンネビル参加リポートの「Addicted to Salt」シリーズを書き始める。(Noteで公開予定)

Miata Very first run moveビデオ
https://www.youtube.com/watch?v=SXYpfKjKOPY


133.496mphラン スタートビデオ

https://www.youtube.com/watch?v=wixY-R2UbPg


133.496mphラン オンボードビデオ
https://www.youtube.com/watch?v=9zgBDdzGC6o


HONDAワークスチームでボンネビルに参加していた元GPレーサー宮城光さんと知り合う。

Jimmy桜井と企画したロックショー・リバイバル「狂熱のライブ1973」4th Night of M.S.G.をEXシアター六本木で開催。

LED ZEPAGAIN 73 LIVE the 4th nightビデオ
https://youtu.be/4JcvNyX3n9s

2017年 クルーチーフの不在で準備不足のまま無理やりボンネビル参加するも、記録は伸びず。

MZ Racingで公開されたボンネビル紹介ビデオ
https://www.youtube.com/watch?v=2SIUEQ7TdOI


MZ Racingで紹介された 2017年スピードウィークレポートビデオ

https://www.youtube.com/watch?v=Q2up5Wj3eJk

「Addicted to Salt 2017」を書く。(Noteで公開予定)

2018年 宮城光さんがチームにジョインして時速175マイル/280キロを目指したボンネビルは、174.756マイル(281.24キロ)とマイルでは未達、キロでは達成という微妙な結果に終わる。
174.756mphラン オンボード・ビデオ
https://www.youtube.com/watch?v=DSmQfj835tk
174.756mphラン・スタート・ビデオ
https://www.youtube.com/watch?v=Kwf5V03aBRE
174.756mphラン 360° オンボード・ビデオ

https://www.youtube.com/watch?v=iJGyA9kVeK0&t=5s


「Addicted to Salt 2018」を書く。(Noteで公開予定)
「The Mother Road/Route 66」の表紙、挿絵のイラストを描いていただいたテリー佐原さんとルート66を全線走る。
この時の旅行記「シルバーライニングを探して」を書く。((Noteで発表予定)
2019年 Jimmy桜井とメンバー探しから一緒にやったLed ZeppelinリバイバルバンドMR.JIMMYが活動を始める。
時速300キロを目指して挑んだボンネビルは雨が降ってコースコンディションが悪く、記録を伸ばせずに終わる。
「Addicted to Salt 2019」を書く。(Noteで公開予定)

気が付けば、レストアした車達はレース資金に消え、残ったHonda Insightでフード・デリバリーDoor Dashを始める。この道すがら出会った「路駐の生存車」の写真を撮り始める。(Instaglum、Youtubeで公開予定)

2020年「The Mother Road/Route 66」がペーパーバックとして出版される。
ザ・マザーロード/ルート66 Amazonサイト
ボンネビルはパンデミックのため出場せず。

2021年 ブログ「My 2nd Stage」を始める。


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