境界線が溶ける
私たちの世界にはたくさんの境界線がある。
年齢、性別、人種、貧富、宗教、など様々だ。
例えば、障害の境界。
知的障害、身体障害、精神障害、など。
最近では、発達障害の問題が取り上げられることが多くある。
「障害は個性だ」という人もいる。
そのとき、境界線はなくなっている。
その世界はどんな世界だろうか。
いろんな人の個性が認められて皆が生き生きと暮らせる社会になっているのだろうか。
ただ、こんな世界も想定されてしまわないだろうか。
今の世界では障害者となる人Bさんとそうでない人Aさん。
Aさん「私は字を読むことが苦手なので、いろんな情報を得ることができません。」
Bさん「みんな最初は誰だって苦手なんです。でも自分で勉強して読めるようになっているんです。できないと言っていないで、できるための努力をしてください。」
これでいいのだろうか。
今の社会の障害の境界は、その人と社会との間に何らかの困難さが際立っている人に対して、その人が困難さを感じやすいということが理解されるように、引かれているのではないか。
境界線は必要かもしれない。
でも、今の社会のままでいいのか。
障害者に対する差別は根強い。
精神障害のある人は、精神病院にまるで隔離のような状態で、何十年も過ごされている。
合理的配慮はずるい、と言われて(強い立場からの)理解が得られない。
境界線は必要である。
でも、その境界線をはっきりと引くことによって、あなたと私の関係性が、健常者と障害者の関係性によって、築かれにくくなってしまっている。
悩んでいることがあって、困っていることがあって、って言われたら、
どうしたの?話聞くよ?手伝うよ?でいいじゃん。
境界線があるからといって、それを自分のアイデンティティとして、根強く
内面化して、あなたと私の関係性を邪魔されては困る。
境界線は必要だけど、その境界線は曖昧で、溶けるのだ。
私はそんな社会に生きたいと思っている。
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