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12月12日、我が家の湾岸戦争。

旧式のソ連製小銃が暴発したのは、彼が軟禁生活を余儀無くされた3カ月目のことだった。

悲鳴が上がったと思うと、夜は氷点下にもなるコンクリートに上に、血痕が真新しく残った。
それは、ふたたび移送が決まって彼を含む人質6人のストレスが一挙にエスカレートした瞬間だった。
突然朝食後に集められ、彼らは移送の旨を通告された。
その伝令役の若いイラク人兵士対して、フランス人の技師が、その容姿と兵士の国を茶化したのだった。憤慨する若い愛国者はイキリたち、取っ組み合いにまで発展した。こういういざこざは、常習化してきていたから、いつものようにアメリカ人のビジネスマンが仲裁に入った。
その瞬間だった。乾いた音が鉄筋コンクリートの室内に否が応にも反響した。
彼は、思わず耳と目を両手で押さえ、しゃがみこんだ。そうすることが、約束のようにできたのは、太平洋戦争中に南方に赴いた彼の父が、酒席の度にフィリピンの激戦を話していたからだった。
銃弾は、若い兵士の腕を貫通して、アメリカ人の太腿にかすり傷を負わせた。いつもは冷静な男だったが、傷から流れる血に動転したのか、アメリカは、オマエラを許さないと甲高い声で喚きながら、兵士たちに押えられ止血を施されている。若い兵士は血を流したまま失神し、走り入った上官たちにタンカで運ばれて行く。
彼はまだ耳を押さえたまま、指の間からその一部始終を傍観していた。フィンランド人技術者が、彼の肩を叩いてくれるまで、しばらく動けずにいた。腰が抜けていたのだった。

壊れかけたTOYOTAのバンは、荒野の中を、何もなかったかのように彼らをバクダッド市街に運んでいく。
発電所の次は、官公庁の並ぶ市街の電話局らしいと噂が車内では流れている。

彼を含む2000人程の民間人が、人間の盾としてクェートから、イラク国内に強制移送されたのは、1990年の8月だった。
ペルシャ湾岸の小さな石油の王国が、隣国に粉砕されるのは、実に短時間だった。北部国境侵攻後わずか20時間で傀儡政権が樹立され、それが国際社会に認められないとなると、19番目の州としてイラクに併合された。
外貨の欠乏した大国の、その追い詰められた電撃的作戦は、国際社会をそして、在クェートの各国大使館を大いに混乱させた。
中でも彼の母国の憔悴は顕著で、邦人保護という経験もガイドラインも持たず、彼を含む200人の保護を求める国民を、イラク大使館に無条件で引渡しさえもした。彼らの途方も無い落胆は想像する以上に大きかった。俺たちを捨てる気かと騒ぎ、大使館員に詰め寄る人も多かったが、その中で彼はただただ、愕然とするばかりだった。それはさっきの銃声の時と変わらない、どこか自分の人生ではないのではないかという疑いが大きかったからだ。そこに、空腹さえ訪れなければ、悪夢としてやり過ごす事ができるはずだと、何度も考えたりもしていた。

電話局というのは、不幸中の幸いだった。
母国に3日に一回くらいの頻度で国際電話が許され、彼は妻や中学生と小学生の息子の声が聴くことができた。
ただ、彼の声はイラクでも録音され、母国でも外務省の職員が録音した。一本のテープはその都度、霞ヶ関の本省に届けられ、もう一本は彼の勤務する本社にもたらされていた。人質の家族を取材する新聞社やTVの記者は、そんなやりとりがある事を知っていて、玄関先で彼の妻に、旦那さんは元気でしたか?と心にもない声をかけていた。本来気丈である彼女は、段々とおかしくなっていた。幼い息子は、飲酒をして夜中に泣く母を見て、事態がとんでもない事だという事だけを理解していた。

彼は、少しばかりかじった聖書と家族との電話だけが、心の支えだった。
あのアメリカ人のように、アメリカは暴挙を許さない、と言うほどもはや母国を信じることもできなかったし、ドイツ人やフランス人が何とか脱出しようと計画していることにも加担できずにいた。ただただ、傍観するばかりに、ナンのような皮のパンと豆の水煮と薄い紅茶を毎日、噛み締めていた。
少なくとも今まで、彼は自分の職業に誇りと使命感を持っていた。明治以来、彼の勤める会社が造船で培ってきたタービンの技術は、世界の発電所の数だけ必要だったし、母国は折からの好景気でODAを頼りに国際的地位をもっと確立しようと躍起だった。末端に携わる彼でさえもMITSUBISHIとODAという二つの印籠をもってすれば、少しの技術を持っているだけで、世界はいつだって歓迎してくれていた。ナガサキで生まれ、被爆者の母を持つ彼は、そうすることが、父の代ができなかった国際貢献であり、世界平和への貢献だと思っていた。
しかし、今彼は母国と同じように、戦争を前に何もできなかった。そればかりか、夫としても、父親としても、なす術がなかった。彼は結婚してこのかた、彼の家族に対して未だかつて何も父親らしいことができていないことにも呆然としていた。そう思えば思うほど、ここでは死ねない。日本に帰るのだ。そんな微かな意地が彼を支えていたのだ。

湾岸戦争の開戦前夜というべき12月12日、成田空港に彼は、政府のチャーター機で降り立った。

おかえりなさい、お父さん。

そう書いた横断幕が掲げられたゲートに家族たちはこぞって迎えにいった。妻は長崎を出るときから泣きじゃくり、幼い息子は飛行機に乗れる事だけでも嬉しく、特別にもら日航機の模型を握って、フラッシュの中の父に手を振った。上の息子は頼もしく新聞のインタビューに応えていた。

明けて正月、彼は初めて家族で屠蘇を飲んだ。息子たちに初めてお年玉をやり、初めて初詣に出かけた。息子たちにどう接すればよいかもわからずにいると、妻から何度も助け舟が出た。幸せだった。
ただ、毎日ブラウン管に映し出される空爆は彼にとって悲痛だった。彼がいた電話局は直ぐにピンポイント爆撃の標的になり、これまで手掛けた火力プラント破壊され、淡水化施設は、ことごとく原油に呑まれていた。

長い休暇の後、日本での勤務を断って、彼はやはり現地に赴くことを決めた。妻はもう泣かなかった。もちろん、家族も反対しなかった。幼い息子ももう寂しくはなかった。父としての姿をしっかり、彼の中に見出したからだ。そして息子には、2週に一回、彼から決まって便りが届くようになった。

冬が来ると彼は、あの時の正月を思い出している。結局、家族全員で過ごした正月はあれが最初で最後だった。息子たちはてんでバラバラに生活をしている。上の息子は、彼の跡を追ったのか、紆余曲折を経て石油開発の会社に就職し、転々としている。下の息子は結婚したが、年に一度帰ってくるかこないか。
ただ、彼には不安や寂しさはない。何処にいても、何をしていようとも、彼の家族は彼を誇りに思っている。彼はそう信じられる。
妻と春に咲くチューリップの球根の世話をしながら、初めての正月を思い出していた。

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