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雪原の列車。


 雪原を走る最終の特急列車が、突如停車したのは、千歳を発って1時間以上経ってからだった。 そういえば、足の裏や股のうちに、響く車輪の規則正しい音が、ガリガリと何かを削るような音に変わっていたのを思い出した。

  緩やかに減速したかと思うと、ガタンという音ともに、列車は雪原の中にとどまってしまった。 左の窓には、折から吹き付ける雪があっという間に積もっていく。きっと信号停車なのだろうと思っていたのだが、アナウンスはない。 停車が5分ともなると、窓べの雪とおなじように、徐々に車内に不安が募っていく。 

「きっと、鹿をひいたのよ」 

「他の列車との連絡がうまくいかなかったのさ」

と実に確からしい、北海道の列車事情を乗客たちがささやかれるが、どうやらどれも答えではないらしい。

  ダン!という音がしたと思うと、車内の明かりが消え、一瞬真っ暗になった。 さっきまで、ささやきあっていた女たちが、一斉に悲鳴をあげ、男も男で太い腹からでた声で驚きを隠せなかった。 

 夜行バスのようにわずかな明かりがフッと点いただけでも、もはや意識の共同体のようになった車内には、福音だった。 しかし、ガラスからは津々とを冷気が漏れている。空調が切れている。

  賢いだれかが、カーテンを閉め始めると、皆がそれに従って、一斉にカーテンレールを引く音が響く。 そんな中にようやくアナウンスが流れた。これまでとは、打って変わってたどたどしい若い車掌の声は、何度も吃音を繰り返しながら長い口上を始めた。  

 特急とかち9号帯広行きは、 折からの強い吹雪のため、 視界不良とともにレールの融雪器が 故障し立ち往生している。 連結車両の車輪も風雪で凍結をしはじめ、 一部回転できなくなっている。 復旧に全力を尽くす。 まとめるとこうだ。

 しかし、全力をと言っても乗務員だけでは、どうにもならないのは明らかで、支援を待つのが最善であるらしい。 若い車掌が高い背を折るようにして、座席までお詫びを伝えにきた。また、具合の悪い人はいないかと丁寧にヒアリングをしている。 若い男の顔は焦躁というより、苦悩が額からにじんでいた。吃音とともに声がかれはじめていた。 

 大雪で代替車両も派遣できない。 幹線道路から遠く、農道しかないので大型重機や輸送車も入れない。 復旧の目処が経つまで車内にとどまって欲しい。  

 彼は低姿勢のまま話し続けていた。そんな彼の低姿勢のお陰なのかもしれないが、小さな共同体は至って平静だった。もう既に、誰もが朝まで列車は動くまいと腹をくくったせいかもしれないのだが。 列車は、非情にもポツンと黒と白しかない雪原に放置された。 車内は相変わらず津々と冷え始めている。 30分ほど経って、電気と暖房がついた。安堵という吐息が方々から漏れた。 

 ただ、それから1時間ほど経ってから、例の彼がまた詫びに来た。 今度はほとんどのトイレが詰まっているという。用を足すには、 最後尾車両まで行かねばならない。  

「全くしようがないですね」 

「たまに北海道ではあるんですよ、吹雪での立ち往生というのは」

  隣の席のビジネスマンと目があったから話をした。彼は札幌の本社で仕事を終えて、帯広に帰るらしい。 たわいもない世間話をしていたら、車掌の彼が、後方から血相を変えて走っていく。 車内のざわめきが遠くからくる潮騒のように、うねりをともなって、拡散される。 

 アナウンスだ。医師や看護士の方はいらっしゃいませんか。としゃがれた声で繰り返している。 誰か倒れたらしい。 初老の眼鏡の紳士がやおらグリーン車の方向に向かったと思うと、タイトな鮮やかなピンクのセーターの女性がそれに続いて駈けていった。香水の匂いがさっとあたりに残った。15分程してもざわめきは収まらない。

 しばらくして、後ろの方で、若い女が歓声とも似た声をあげた。 「救急隊が来ているらしいです。ほら、向こう。光が近づいてくるでしょう。」 すでに、ネクタイを外してしまったビジネスマンが、そう手招きをしてカーテン越しの窓を指差す。 結露したガラスを何度も拭うと、ぼんやりとした無数の黄色と白の光が段々と近づいてくるのがわかる。 軽トラックのような小さな除雪車2台とダウンジャケットに赤い法被を着た消防団に引率された、救急車が土手道をヨロヨロと近づいてくる。 乗客はみなカーテンを開けて見入っていた。再び救急車が走り出したとき、共同体に拍手がおこった。 眼鏡のずれた紳士とよれたセーターの女性が、車内を通ると拍手はまた起こり、二人は静かに席に着いた。 狭く長いシェルターのような車内にいるその人たちには、少し余裕がでてきたようだ。

  日付が変わった頃に、支援列車に乗って弁当とお茶が着た。 車外には投光器が置かれ、ポイントが溶雪されている。車内には寝息が方々で聞かれる。  

 ガタン!5時をまわった頃だろうか、車両が大きく揺れた。 乗客たちが雪山の小動物のように顔をあげ、あたりを伺っている。 アナウンスだ。除雪と融雪が終わり、牽引されて千歳に引き返すことになった。 千歳からはバスが用意されているという。 ゆっくりとゆっくり動き出した僕らのシェルターは雪原を引きずられていく。 太陽が昇るのはまだまだ先のようだ。午前7時。 駅職員総出で迎えられた特急とかち号が千歳に入る。 駅員たちに詫びられながら、返金とバスへの案内がすすめられている。 車掌の彼はどうしているだろう。 いた。ホームの端で乗客たちに労いの言葉をかけられている。

  伊藤、そう彼の名はそういったはずだ。 あれからもう6年になる。 同じ型の特急列車に乗って、僕は札幌を発って函館に向かっている。 苫小牧を過ぎたあたりで、満員の列車が減速した。 アナウンスだ。津軽海峡からの激しい風雪のため、安全のため減速したのだという。 あの6年前の10時間以上の缶詰と共同体をふっと思い出し、少し戦慄する。

  電車は5分の遅れで、函館に無事到着した。 なにごともなく、津軽海峡線にも連絡ができたようだ。慌ただしく流れる乗客のなかからふと、背の高い車掌が見えた。 伊藤さん? そんなはずはないかと思い、市電へと乗り換える。 こんな過酷な自然のもとで、広大な路線を、今日も誰かが支えている。 

 たくさんの問題も抱えながらも、あの若い車掌は、背を折り曲げて改札しているのかもしれない。 モノとヒトが定刻どおりに目的地に到着をする。 いうまでもないが、これは大変なシステムだ。

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