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核拡散防止を国際協調の中で行いながら、核をなくしていく技術、平和利用のための技術革新、核の次の技術への挑戦というのは続けていくべきで、多くの人が今も問題を解決しようと取り組んでいることについて、誠意を持って考えていかねばならないことだと思います。このことについては私は勉強不足で多くは言えません。言えることは、祖母が見た大正・昭和・平成のナガサキ、とりたてて私の小さな家族の歴史だけですが、それさえも今や風化していくことに少しずつ焦りを感じ得ない気がします。

祖母や家族の頭上で炸裂した長崎型原爆はプルトニウム型原爆だと言われます。ウランから人工的に造り出されたプルトニウムはたった7キロで、一瞬のうちに街を破壊し尽くし、その後70年もの間多くの家族を苦しめ続けています。純度の高いプルトニウムは精巧に計算された花火のような形状の弾薬に詰められ、同時爆薬で圧縮されることで超臨界に達し、凄まじいエネルギーを放射しました。

炸裂した際の爆風は風速300〜500m、半径1〜2キロでの熱線は3000〜4000度とも言われ、放射された中性子線は人体内も透過して人体細胞を破壊したと言われます。約24万人の長崎のうち9万4千人が亡くなり、爆心地から1〜2キロは全壊、3〜4キロ地点では半壊しました。

爆心地から2キロとない西浦上の支所の前で叔母を抱いた祖母は、被爆をしました。熱線から生還した方々の記録や話を聞くと、遮蔽物の有無によって生死が別れたことがわかってきています。当時の太平洋戦争末期の訓練では、爆薬の投下時には目と耳を両手で塞ぎ、頭を保護するようにしゃがむということが、なされていたようですが、原爆の投下時は警報も解除され、昼前の忙しい折に突然とした光線と爆風が襲ってきたので防護をなすすべもなく、熱線の照射に曝されたのだと思います。

祖母の場合、胸に抱いた叔母がその遮蔽物として作用したようでした。50mほど飛ばされ、意識が戻ると焼け焦げた叔母が胸におり、祖母自身も左半身全体にやけどを負い、服と皮膚が一緒になり、多くのガラスが刺さっていたそうです。

住吉の家がどの辺りにあるかも分からず、祖母は半ば意識が無い状態で呆然としてそこに叔母を抱きながら居続けていたようです。内臓の飛び出した人馬が周りにあるなか、飛ばされた布団やモンペの内部から火が出始めてはじめて、ここにいてはいけないと思ったそうです。伊木力、祖母の生まれた家に帰ることを決心したのは焼け焦げた人たちの列が浦上から時津へ、川平へとくすぶる炎の中、うごめいているのを見たからでした。

祖母は国鉄のひしゃげた線路伝いになんとか道ノ尾まで這っていけたそうです。夕刻、道ノ尾の駅には新型爆弾の投下を聞いた大村や諫早の救援列車が来ていて、駅舎は救護所に変わっていました。救護所で娘に消毒液を塗ってもらっている間、彼女の記憶はそこで途切れてしまいます。

記憶が戻ったのは夜半、峠を越える山路、戸板の上だったそうです。抱いていた娘は髪もなく頭や身体は、風船のように膨れていたそうです。親戚のお爺さんと小学生の男の子が戸板を黙って担いで生家へと向かっていたといいます。

狭く暗い納屋で介抱をされていた祖母は何度も殺して欲しいと親族に訴えたそうです。
彼女は娘を守れなかったこと、多感な少女の折に小さな集落を飛び出して、街で暮らすことになったことを悔いていたのかもしれません。また、放射能というのが何かわからず、医療物資や食糧も不足するなか、無知というのは社会において差別の対象の対象だったのかもしれません。
奇形児が次々に産まれ、米国の調査として治療も受けられないまま施設に連れて行かれる人たちや幼い命を見て、街や小さな集落では被曝という事実を隠匿しようとしていました。また、このような事実を土地柄、罪や罰だとも受け取った方々は少なくはありません。狂気とする人たちは一律に精神病と診断され隔離され、産まれてくる命も静かに殺され続けていたと聞きます。

私の家族の中で、平成になってもヒバクという事実が忌むべき存在で、墓標に書かれている親族たちが何故死んだかを語られなかったのは、祖母の想いに気を遣う親族たちがいたからでした。

友人の絶えない快活な笑い声や、老いても日舞で鍛えた姿勢には、幼い私からみて彼女には、悔恨や憂い、哀しみも微塵もないように思っていました。

それが一変し、彼女がポツリポツリと大正と昭和という長崎を語り出したのは、つい10年前からでした。
私だけに話すのは、私が幼い頃に、彼女のケロイドをどうして?と問いたからでした。無邪気な好奇心は、大人の心をえぐるようなこともあると知ったのは、つい最近のことです。彼女は生前私の問いに最後まで答え続けてくれました。

断片的に語られる記憶を図書館や資料館に行って背後や前後関係を調べるというのが、私の密かなライフワークであったことは、今ようやく記述できることです。

祖母は亡くなり、もう彼女の口から生きた時代を聞くととはできません。しかし、彼女が生きた証は、私が生きるということ、私が書きつづけるということだと思っています。家族やナガサキの記憶を繋げる、おこがましいかもしれませんが、私の小さな役割だと思っています。

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