行基と渡月橋、法輪寺。


十三詣りで高名な嵐山の法輪寺は、元は行基が建立したお寺であるらしい。行基は、近鉄奈良駅前に銅像があるように、関西近隣、加賀や讃岐まで伝説と言えるくらいの言い伝えが多い。

初期の仏教は、どうやらかなりゲリラ的な展開をしていたようだ。精神の向かう悟りを願う集団というより、実利に長けた土木部隊といったほうがいいかもしれない。
枯れた田畑に進んで、井戸を作り、水脈を造成した。水害で疲弊した河川に橋を架け、市を開いた。

このゲリラ集団は、地方にも波及をして、土木技術に裏打ちされた土地活用と、信仰というビジョンで結ばれたコミュニティーをつくり、増幅を始める。行基図という日本地図ができたのもこの頃で、伊能忠敬が改めるまで、この地図は延々とリバイバルされ江戸期まで国土把握の基軸とされている。

改まったばかりの朝廷は、この増幅するゲリラ集団がおぞましくならなかったようだ。ただ、何度も弾圧を試みたが、武力に裏打ちされた租税制度はもはや破綻を迎えていて、武力行使のたびに民意は離れるばかり。

輪をかけて、有力豪族が次々に行基を始めとする集団に土地や財産を喜捨というかたちで委託運用したものだから、もはや利潤は朝廷をも凌ぐことばかりであったらしい。

破綻した租税制度をみて、結果的に土地活用として莫大なコミュニティーと経済を有した行基は、インドからの仏典と僧正を平城京に迎え、仏教は日本の国教となった。

国の租税制度の穴を塞ぎ、技術を集約させ発展させた東大寺の大仏殿の造営は、大国家プロジェクトだったと言える。しかし、その裏のあったのは、行基を初めとする集団の土地開発事業で作られた畿内を中心とするインフラ網と、それで生まれた可処分所得を贈与するという、喜捨や勧進という経済システムがあったからだ。

法輪寺に登ると渡月橋が臨める、古来水害の多い荒ぶる保津川右岸と左岸に初めて、橋を架けたのは行基のグループだったと言われる。橋の位置は、今よりずっと上流で、丸太橋だったらしいが、山陰と近江、畿内を繋ぐ中継地となった。今や渡月橋は観光客で溢れ渡れないほどの賑わいだ。

行基の足跡を辿る日をいつかしてみたい。

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