三浦綾子に同感だなんて、私は古風な女かもしれない:『愛すること信ずること』
『氷点』の作家、三浦綾子さんの作品の中で初めて読んだのが『道ありき』だったと記憶しています。
真っ直ぐ率直な口あたりの文章にのめり込んだ記憶があります。がんや脊椎カリエス、パーキンソン病などで闘病生活をしていたと思えないほど、真の強さを感じさせる文章です。
三浦綾子さんの生涯を綴った『道ありき』を読んだからなのか、今回の『愛すること信ずること』のに綴られた言葉一つ一つに深い共感と感動を覚えました。
愛すること信ずること
[著] 三浦綾子
講談社 1984.08
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愛することとは、どんなことでしょうか。
「愛」という言葉を聞くと、多く人は男女の愛を思い浮かべるのではないでしょうか。
でも、私は男女の愛ではなく、もっと普遍的な愛について考えてみたいのです。
愛は仏教では煩の一種と捉えられています。つまり、「良くないもの」です。一方、キリスト教では神の愛や隣人愛を説いているくらいですから、愛は「良いもの」と捉えられているのでしょう。
愛はいろんな形があるのかもしれません。
私はどちらかというと、愛は「良いもの」であり、人生をかけて体現したいことだと思っています。そして、エーリッヒフロムに影響された私は、愛は技術であるとも思っています。努力しないと愛しえないと思っている訳です。愛そのものは完璧なものであり、人間に幸せをもたらすものだとしても、人間は完全な愛を体現することができないと思っています。
別にニヒリズムに陥っている訳ではありません。世の中のなにものにでも、存在する意味や価値があると思っています。
ただ、愛することは、人間に与えられた最終的な使命であると同時に、完全に成し得ることができない使命でもあると思うのです。
ここで、成し得ることができないのだから諦めるのか、それでも自分なりの意味と目標を立てて、少しでもちょっとでも使命を自分のものにしようとするかは、自由です。ところが、その自由の中における選択に、個人の生き様が映し出されてしまう。そして、その生き様がその人生の「解」とされてしまう。
コタエがないはずの人生なのに、歩んできた人生が結果となりコタエとなる。そこで悔しいと思うか、ここまでよくやったなと思うかは人生の最期にならないと判断ができない。いや、死ぬまで判断がつかないかもしれない。
人の価値は、他人に判断されるものではありません。あの人は短気な人ねと判断する人もいれば、同じ人に対してあの人は正義感が強いと判断する人もいるでしょう。人にとやかく言われたかたといって、その人の価値が決まることも変わることもありません。
つまり、人の価値は「すでに決まっている」ものだと思うのです。
だとすると、すでに決まっている価値をどう思うのか(良いと判断するか、いやと判断するか)はさておき、その価値を受け入れること、そして、受け入れられることが、人間にとっての最も安心する瞬間になるのではないでしょうか。そして、それを「愛する」「愛される」と呼んでいるのではないでしょうか。
今回読んだ『愛すること信ずること』では、まず完璧な人間がないということを自覚すること、そして相手の嫌な部分も全て含めて受け入れることが愛することだと語っているのではと思いました。
もちろん、嫌な部分をそのまま放任する、見てみぬふりをする、悪いことでも目を瞑るということではありません。
むしろ、その嫌な部分も受け入れる覚悟があるか?と愛は問うのではないかと思います。
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