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敵米軍に「日本軍のヒューマニズム」と言わしめたキスカ島・奇跡の撤退作戦を成功させた木村昌福~日本が世界に誇るJミリタリー・教科書が教えない〝戦場〟の道徳(4)

第4回は敵であるアメリカ軍から「日本軍のヒューマニズム」「パーフェクトゲーム」と称賛されたキスカ島からの奇跡の撤退作戦です。

◇エピソード キスカ島・奇跡の撤退作戦を成功させた木村昌福     ◇キスカ島撤退・その他3つのエピソード               ◇参考文献等

 旧日本軍に対して「命を大事にしなかった」というようなレッテルを貼りたがる人が今もいるようですが、それは事実に反します。その証拠の一つが孤立したキスカ島から約5千人の兵士を救出した撤退作戦です。これは敵であるアメリカ軍から「日本軍のヒューマニズム」「パーフェクトゲーム」と称賛された奇跡の作戦なのです。

 太平洋戦争時、日本とアメリカは北の果て極寒のアリューシャン列島でも戦闘を交えました。日本軍はキスカ島とアッツ島を奪取しましたが、すぐにアメリカ軍の猛攻を受けます。アッツ島の日本軍守備隊は、約5倍の戦力で反撃してくるアメリカ軍と17日間にわたる激しい戦闘の末に玉砕します。アッツ島を失ったことで隣のキスカ島は孤立。ここを守る陸海軍5183名の兵士たちが取り残さることになってしまいました。

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 この5183名を救出した奇跡の作戦を成功させたのが第1水雷戦隊・木村昌福(まさとみ)司令官をはじめとする「チーム日本軍」なのです。

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 ちなみに、このエピソードは三船敏郎主演で1965年に映画化されています。

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◇エピソード キスカ島・奇跡の撤退作戦を成功させた木村昌福
 
 1941年12月、日本とアメリカの間で戦争が始まりました。半年ほどは日本が優位でしたが、その後はアメリカ軍の大規模な反撃が開始され、日本は徐々に不利な立場に追い込まれていきました。

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 戦いは真夏でも極寒の地・アリューシャン列島でも行われ、日本軍はアメリカの領土であるアッツ島とキスカ島を占領しました。しかし、その1年後にはアメリカ軍との壮絶な戦闘の末、アッツ島の日本軍は全滅。このため、隣のキスカ島を守る日本軍守備隊5183名が孤立し、取り残されるという事態になってしまったのです。

 日本軍はこの取り残された5183名の兵士たちを助けるために作戦を立て、その準備に取りかかりました。しかし、この作戦遂行には多くの難問がありました。

 第1に、キスカ島はアメリカ軍の強力な大艦隊に常に包囲されていました。そして、1日最低でも2回、多いときは10回以上も空からの爆撃を受けていました。まさに四面楚歌の状態です。ですから、食糧などの補給も途絶えてしまい、兵士たちは栄養失調の状態でした。

 第2に、キスカ島周辺の気候の難しさです。年間を通じて快晴の日は15日程度。冬は雪と暴風。作戦を実行する夏は常に霧が発生している状態です。まだレーダーが実用化されて間もないこの時代の船にとって視界がさえぎられる霧は難題です。

 この難しい作戦に挑んだのは第1水雷戦隊司令官・木村昌福(まさとみ)です。木村司令官は「全員救出」「人命第一」を掲げました。そして作戦会議では次の2つを強く主張しました。

「救出作業は1時間以内だ。これができなければ作戦は必ず失敗する。絶対に1時間以内に完了せよ。そして、兵士たちが船に持ち込める物品は最小限にする。銃などの兵器も海中に捨てて乗り込んでもらう。短時間で乗り込み、船足を少しでも速くするためには兵器は不要だ」

 約5千人もの人間を1時間という短時間で乗船させるのは至難の業です。このためにどうすれば時間短縮できるか?徹底的話し合われ、そのための訓練も繰り返し行われました。また、大事な兵器を捨てることについても批判がありましたが、木村司令官は絶対に譲りませんでした。

 これより作戦実行までの2週間、救援のための猛訓練が始まりました。濃霧の中を船で航行する訓練、続いてくる船の目印になるブイを引きながら航行する訓練、給油艦から海上で補給を受ける訓練、そしてキスカ島に入港してからの兵士たち収容訓練などを徹底的に行ったのです。

 さて、作戦の成功にためには霧の利用が重要なポイントでした。霧があれば前方の視界が悪く航行には適しません。むしろ危険とも言えます。しかし、霧があれば敵のアメリカ軍の目をあざむいてひそかにキスカ島へ入り、兵士を救出して戻ることができます。つまり、霧は諸刃の剣なのです。霧をいかに利用するかがこの作戦を成功させるためのカギでした。

 いよいよ作戦が実行される日です。キスカ島の5千人の兵士を助けるために駆逐艦及び巡洋艦約10数隻は幌筵島の基地を出発しました。

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 しかし、キスカ島に近づいたところで天候が変わり始めました。気候担当の予想ではキスカ到着のころには「視界良好」「飛行も適」だというのです。これでは敵のアメリカ軍に発見され、しかも敵の戦闘機や爆撃機の攻撃を受けるかもしれません。しかし、島には今か今かと助けを待つ日本軍の仲間がいます。危険かもしれませんが突入すれば全員は無理でも何人かは助けられるかもしれません。

 重苦しい空気の中、乗員たちは固唾を飲んで司令官の言葉を待ちました。そのとき、木村司令官はこう言ったのです。

「帰ろう。帰れば、また来ることができるからな」

 こうして1回目の作戦は中断されました。この判断を「弱腰だ」「敵が怖いのか」などと批判する者もいましたが、木村司令官は決して耳を貸しませんでした。

 それから約2週間後。再び救出作戦が実行されました。7月22日出発。28日にキスカ島到着前日となりました。気候担当は「29日は曇り。霧が断続。飛行に不適」と報告しました。これを聞いて木村司令官はキスカ島突入を決意しました。

 29日。この日は「終日、霧または雨。視界不良。飛行不適」。乗組員たちは「これで助けに行ける!」と抱き合って喜びました。船は敵に発見されないように、危険な濃霧の中、前方に突然現れる巨岩を巧みに避けながら高速で突っ走ります。それ人間業と思えない操縦でした。

 午後1時40分。ついにキスカ島に到着。島で待っていた兵士の声が聞こえます。「ほんとに助けに来てくれたんだ」「ありがとう、ありがとう」。船に横付けした発動挺から縄ばしごを駆け上るキスカ島守備隊員たち。「がんばれ」と声をかけながら手を差しのべる救援隊員。こうして守備隊全員を収容するのにかかった時間は55分でした。「よし!出港だ!」という木村司令官の声で救援隊はキスカ島を離れました。

 アメリカ軍はキスカ島が無人となったことにまったく気づいていませんでした。しかも翌日の30日からほぼ2週間もの間、無人のキスカ島を攻撃し続けたのです。アメリカ軍は砲撃2千発以上、戦闘機・爆撃機による攻撃、3万4千人のアメリカ兵が上陸。しかしキスカ島はもぬけの殻でした。

 この奇跡の救出作戦は敵国・アメリカにも「日本軍のパーフェクトゲーム」と称賛されました。また、アメリカ軍のケーリさんは「キスカ島の救出作戦は日本軍のヒューマニズムの表れだ」と言って敵である日本軍の人間味あふれる作戦を称えました。

*この教材は<特別の教科 道徳>「A・主として自分自身に関すること」の「希望と勇気、努力と強い意志」に関連します。

◇キスカ島撤退・その他3つのエピソード

①気象士官の活躍 木村司令官に重要な判断材料を提供していたのは気象専門の士官です。気象担当の一人である竹永一雄少尉はアリューシャン付近の気象関係資料を徹底的に調べ、基地のある幌筵島から2日遅れでキスカ方面の気象が同じになるという霧の発生パターンを見つけました。但し竹永氏はデータの少ない当時の気象予想は「競馬の予想屋」と大差ないと言っています。予想はそれほど難しいことだったのです。

②煙突の偽装作戦 3本煙突の日本の軽巡洋艦の1本を白く塗り、2本煙突のアメリカ巡洋艦・ヒューストン型に偽装。この作戦は実際に成功し、キスカ島撤退後の帰途中に敵潜水艦と遭遇しましたが、潜水艦はそのまま潜航しただけでした。

③アメリカ軍の同士討ち アッツ島での激戦を経験しているアメリカ軍は「無人のはずがない」という思い込みから島の各地で激しい同士討ちを起こしてしまい、死傷者は51名にも上りました。

◇参考文献等

*阿川弘之『私記キスカ撤退』(文春文庫)

*市川浩之助『キスカ〈日本海軍の栄光〉』(コンパニオン出版)

*将口泰浩『キスカ島奇跡の撤退 木村昌福中将の生涯』(新潮文庫)

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