見出し画像

覚書のすすめ(メモ・スケッチ・スナップ)

本日は、メモ・スケッチ・スナップといった類の概念(本noteでは、覚書、と呼びます)が好きで、もっとそれをやっていきたいよ、という話をしましょう。(多分に前田裕二さんの『メモの魔力』(幻冬舎)の影響を受けて書いた文章化と思います。面白いのでぜひに。)

もしかしたらあなたにとって、気に入って購入したけどあんまり触れられていなかった文具と出会いなおすいい機会になったりしないかなとか、ちょっとだけ下心を持ちながら書きます。


なんで覚書が好きなのか

メモが好きなのはなぜか

歌手のあいみょんさんのアルバムで、『おいしいパスタがあると聞いて』というタイトルのものがあるんです。
これ、彼女のメモの中にあった、「おいしいパスタがあると聞いて」がいいなと思って付けたらしいんです。

アルバムを作るときはいつもコンセプトは決めずに進めて、その中で「何てタイトルがいいかな?」って考えるんですけど、あるときにいろんな言葉を書き留めてるメモ帳を開いたら、そこになぜか「おいしいパスタがあると聞いて」って書いてて、それを見たときに「いいな」って。なので、ほぼ直感で決めたタイトルです。

あいみょん公式サイト おいしいパスタがあると聞いて より

 

そう、これ。めっちゃ良くないですか?いいと思うんですよ。なんでいいと思うのか、説明しますね(とうぜん、こういうふうにいいと思わなくてはいけないわけではない。)。
これ、1回出会って捕まえておきたいな、好きだなと思った言葉に、もう一回出会いなおして、そんでやっぱり好きだなと思ったってことなんですよ、きっと。それって、すごくこころゆたかなことだと感じているんですよ。なんでって、自分が好きだと思った言葉とか、引っかかった言葉を残したメモ帳があれば、いつでもそこに帰れるんですよ。
「自分専用の図書館」(家の本棚のことだけど、こういうふうに考えると、絶対読まなきゃいけない、って思わなくて済む)って概念が好きなんですけど、それと同じように、「自分向けジショ」(=覚書)みたいなものができていく、ってことだと思うんですよね?
言葉って(どこかしこでいろんな人が言っているような気もするけど、)やっぱり(僕も改めて言いたいくらい)すごく大切で、それが自分を形作っているんだ、って思うので、この「自分向けジショ」って、いいなあと思うんです。

スケッチが好きなのはなぜか

「自分向けジショ」って言い方をしたんですけど、じゃあ、スケッチとかスナップはどうなんだ?って話なんですよね?だって、自分で先に書いてるので。これも、つながってくると思うんですよ。

星の王子さまミュージアム(箱根(にあった))に行ったことがあるんですけど、あそこって、とうぜん『星の王子さま』についてのミュージアムでもあるんですけど、それと同時に、作者であるサン=テグジュペリに関する博物館?資料館?でもあったんです(コロナ禍の影響もあり、閉館してしまったのですが…)。
そこには、彼が残したスケッチがたくさん展示されていました。パーティーに来ているおじさんとか、談笑するご婦人たちとか。それを見て、すごくいいなと思ったんですよね。これも、上述したメモの話と似てくるんですけど、自分向けの素材を集めている、ってことだと思うんですよ。やっぱり、どれだけ好きだなと思うものでも、忘れていくし、一回かいてみないとよくわからないし。それらみたいに、簡単に消えていってしまいそうなものたちを、大事にとっておくために、覚書があると思っているんです。

 (あぁ、絵(スケッチ)が描けるといいな、と思っているので、かきます!いつしかお見せできるように、やっていきますね)

スナップが好きなのはなぜか

なんだか、ここまで書いていたら、スナップも言わずもがな、という感じがしてきたので、いったん省略します。でも、写真もとっても素敵だと思うんです。これだけスマートフォンが普及して、ほとんどだれでもが写真を気軽にとれるなんて…!一応、ガラケーを通ってきた世代なのですが、やっぱりあのころには考えられないくらい画質が綺麗ですもの。きれいだな、と思ったものが、(ある程度)そのまま残せるなんて、なんてうれしいことでしょうか。
一方で、写真については、どうしてもデジタルデータで終わらせてしまうのがもったいないな、と思います(これは相当に自戒を込めて…)。できれば、時々は見返して、自分の特にお気に入りをピックアップして、印刷してみたいものですね。誰かの昔のアルバムを見るの、悪くないでしょう?
自分のために整理したものが、誰かをちょっとだけ喜ばせるものになれば、しめたものだなぁと、だいぶ下心ありきで思っています。(今日、100円ショップとかによって、アルバムでも買ってこようかしら。余らせているノートでもいいかもしれないですよね。ああ、わくわくしますね。わくわくしついでに、省略はあんまりできていなかったですね)

覚書をなんでしたいと思うのか
(架空の反論への反論により回答する)

これまで、うえで書いてきたことって、「好きなもの・引っかかったものを集めるのっていいですよね」なんですけど、3個くらい、なんか反論できそうな気もするんです。
ひとつは、「そもそもなにも引っかかってこないよ」ですし、
もうひとつは「引っかかってきても、別に創作なんかしないし」ですし、
最後は「そんな時間ないよ」かもしれないですね。
うーん、そうですよね。誰からの反論なのかもわからないんですが、(たぶん)確実に、うえで書いたことが言葉不足なので、丁寧に書いていきたいと思います。

①「そもそもなにも引っかかってこないよ」への反論

まずこれって、「確かに覚書はしたい」(動機はある)けれども、「なにを対象にしたらいいかわからない」ってことな気がするんですね?

そんで、「なにを対象にしたらいいかわからない」については原因が2種類ありそうな気がして、A.「対象にしたいものを探す方法がわからない」とB.「対象にしたいと思っても、そうしていいかわからない」があると思うんです。 

A.「対象にしたいものを探す方法がわからない」

ひっかけるための、具体的な行動があるかもって思うんですよ。たとえばメモでいうと、「メモするために、紙とペンを持っておいて、なるべくいつでも開いておく」なんじゃないか、と思うんです。
つまり、最終的に欲しいのは「覚書をし得る対象がたくさんある」状態で、今は「覚書をする対象がわからない」。そして、それを解決する方法は、「覚書をする姿勢・状態・人間になる」なんじゃないかと。

たとえば、写真家の蜷川実花さんがおっしゃっていた(らしい)ことで、1日N枚写真を撮る、と決める、というのがあるらしいんです。

もう一つ、写真家の蜷川実花さんに教わった面白いやり方があります。それは、毎日決まった枚数の写真を撮って、あとで振り返って眺めることです。例えば1日に50枚撮ると決める。この世界を、今の自分がどう切り取るか、ワクワクしながら、毎日自由に撮ってみます。 すると、そのときの心境によって「何にカメラを向けるか」が変わります。撮り終えた写真を振り返って、見つめてみると、「やたら、花ばっかり撮るなあ」「ビルばっかり撮ってるな」など、自分の傾向が見えてくる。この感覚こそ、「離れて自分を見る」、すなわち「離見」の第一歩です。意外と自分のことは知らないものだな、と気づくこともあるでしょう。これを教えてくれた写真家の方は、写真上達のため、ではなく、自分を客観的に見つめるために、ずっとそれをやっていたそうです。

前田裕二 『メモの魔力』(幻冬舎)P.112より

それで、蜷川さんは、自己分析のために使ってた、ってことなんですけど、それは最終ゴール、究極形態の話だと思うんですよ。
そうじゃなくて、最初の最初の取り組み方・心構え(ルフィでいうところのゴムゴムの銃)で言えば、「写真を撮るぞ!」と思って出かけるってことで、そうすると、見えるものに対して、「これは写真に撮りたいか否か」のジャッジがめっちゃ発生するんです。まなざしが変わるってこと。それが「覚書をする姿勢・状態・人間になる」ってことなんじゃないかと。

対象にしたいものを探すために、対象を探しそうな人になる。ちょっとしたコスプレとか仮装とか、なりきりとか演技とかと言い換えてもいいかもしれないです。「覚書をするひと」になってみると、対象にしたいものをまずは探せるかもしれないですね…。

 

B.「対象にしたいと思っても、そうしていいかわからない」

これについては、正直めっちゃ簡単で、状況的に許されるならば、「対象にしたい気持ち」が発生した時点で全部覚書をしましょう。これは、ゆたかな時代に生きていることの明らかな特権だと思うんですけど、紙も、デジタルデータ(写真の)も、一枚あたりって結構安くないですか?結構、無駄撃ちしちゃってるときとかありません?ぼく、小中高大のノートなんて、大概途中で終わらせてしまっていて、めっちゃページ余ってましたよ?

そうやって考えると、「覚書」がハードル高いから大事にしなきゃと思うんですけど、マジで何でもいいんですよ。だって別に誰も見ないし(見せようと思わなければ)。
たいがいのことに対して思うんですけど、1回でも、ちょっとだけでも、やっておくほうが大事なんで。履歴として残るから。セーブデータ作っておいた方がいいじゃん、絶対。最初のムービーは極論飛ばしてもいいじゃん。リセマラをしてたあの頃のこと思い出してくださいよ。それくらいの軽さで、なんでも覚書いちゃいましょ。

②「引っかかってきても、別に創作なんかしないし」への反論

これについては、まじでなにが問題なのか極論わからない。
さっきみたいな考え方に戻ると、動機がないってことだと思うんですよ。だって覚書ってまあまあ面倒だから。だから、ここから先の文章に書いてあることが反論している人(=僕の心の中の規範)に響かなかったら、それで終わり。けどいいのよ。ここまで読んでくれてんだから。僕はメモが好きだからこうやっておすすめしてるけど、全部やれってことじゃないし。人から勧められた映画も結構見られなかったりするし。

 

はい、「動機がない」ってことに対して、創作以外でわざわざ理由をつけるなら、「わたしを知るため」にやることだから、が僕のひと回答です。
「わたし」についてって何も知らないし、ほとんどのことを忘れていくけど、覚書、マジですげえから。大概のこと残ってるし、めっちゃリアルタイムだし。それって、「わたしを知るため」にめっちゃ役に立つから。そんで、わたしを知ることは、わたしが選ぶもの・ことを知ることで、わたしが選ぶことって生きることだから。だから、なるべくわたしのことって知っておきたいよね、って思ってます。

そんで、そもそも理由なんてつけなくてもよくて、覚書をするのって、たとえば寒い朝に会った友達に、「今日寒いね、まじで」って話すのと同じなんですよ。なんていうんだろうな、外界からの刺激に対して、素直に反応しているだけ、というか。そんで、その反応が、ただメモとかスナップとかスケッチとかって形に残ってるだけだから。

いや、わかる、めんどい。だから、好きなことだけ書いておこ。このnoteもそうだし。

 

③「そんな時間ないよ」への反論

うわっ、これどうしようね。自分で書いておきながら、めっちゃ強いんだよなぁ。これ。動機もあるし、対象にしたいものもわかるけど、実際問題としてできないってことでしょ?
これはね、できないって言われたらできないんだよな。すごいある種残酷なんだけど。だってできないんだもん。
だけどね、これは僕の言い方が悪いと思ってて、「覚書」とか「メモ」とか、ましてや「スケッチ」って、えぐいんだよ。ハードル高すぎ。めんどくさそう過ぎる。やりたくない。
わかる。時間もない。仕事だって忙しいし、だからこそ帰ってきたら洗濯とか掃除とかしなきゃいけないし早く寝たいし、お気に入りのYoutubeの動画観たいよ。わかる。もうそれしかわかんないくらいわかる。
だから、元気な時だけやろ。動画観てるときとか、たのしっ!って思うじゃん。それ、Twitter(新X)とかでもいいし、携帯のメモとかでもいいし、なんか仕事のもう使わない資料とかにでもいいわ。「たのしっ!」って書こう。めっちゃ元気だったら、日付もかいとこ。うまくいったら、ちょっと経ったあとにそれを見つけたとき、「ああ、あの動画観てたんだっけ、楽しかったな」って思えるかもだから!
自分の未来へのボトルメール、残してこ?元気な時だけでいいから。
元気で、時間があるときがあなたに増えることを、心から祈っています。(われわれには時間がなさすぎるから)

さいごに

よしっ!いまのぼくにできる反論はしましたね。これで、僕が疲れて、メモとかしたくないよ…って思ったときとかにここに戻ってきたら、少しだけ元気になる気がするな。わかんないけど。

 

途中から、だいぶみくのしんさん的になっちゃったし(もちろん、彼ほどすごいものをかけないけど…)、構造とかはよくわからないんですけどね。
(みくのしんさんの好きな記事は↓。やさしさや愛や許しです…)

とにかく、(元気だったら)もっと覚書をして、自分のことを知って、自分の好きなものを知って、楽しく生きていきましょうね、と思っています。
もうね、ただでさえ難しいことばっかりなんだから!めんどくさいし大変だし、悲しいことはいろんなところで起きているみたいでそれを聞くだけでもしんどいし。
だからね、自分のやりたいかもしれないことくらいは、とりあえずアホほどハードル下げて、なんならもう撤去しちゃおう。歩いているときに、小石があるな、うわっ、ここ通れないわ、って思わないじゃないっすか。ハードルを跳ぶのとか、山登りとかボルダリングとかは、もうめっちゃ後にしよう。散歩しこたまして、なんとなく元気になってきたらやろう。

 

このnoteについても、どこかにメモしてくれてもいいんですよ?なんてね。
では、またね~~~。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?