『蜜蜂と遠雷』から考える「好き」の共鳴

柏木むつき


きっと「好き」ってこういうこと。

先日、ずっと観たかった『蜜蜂と遠雷』を観に行った。

26日までの上映スケジュールだったそうで、ギリギリセーフ。

元々、原作のファン。

三浦大知さんを尊敬している私は、

彼の歌う『蜜蜂と遠雷』コンサートにも足繁く通った

(元々オーケストラ経験者の私。

千住明さんとオーケストラをバックに大好きな歌手が歌うなんて…

贅沢すぎるではないか!!)。

とはいえ、何より『蜜蜂と遠雷』の世界観が好きすぎて、

原作は私の出会った本の中で5本の指には入るだろう。


この本に出会って感じた「好き」の共鳴について

3つの視点から考えてみたい。

「好き」が気づかせてくれた「好き」の感覚。

元来、私自身は読書は好きな方。

しかし最近はめっきり時間を割くことがなくなってしまった。

加えて、大学院生活において、

難しくて3行読んだだけでも眠くなるような書物を読むことを

半ば強制され(もちろんこの類の読書が好きな人もいるが、

私にとっては違うということ)、

小さい頃に貪るように読んでいた、

「好き」という感覚を忘れてしまっていた。

昔は寝る間を惜しんで読んでいた本たち。

親に「もう寝なさい!」って叱られても我慢できないあの感覚。


実際、原作『蜜蜂と遠雷』を購入した当初も、

すぐに読み始めるということはなく、

その見た目のハードさから(何せ500ページほどある大作なのだ)、

「時間ができたらゆっくり読もう」

とずっと「積読」状態だったのだ。


しかし手に取った瞬間、私は気づいてしまった。

「好き」は時間を創り出す、ということに。


読みだしたらもう、

ページをめくる手が止まらなくて、

500ページ超えのハードカバーで重たいはずなのに、

毎日カバンの中に入れて、移動中にも読みふけった。

乗り換えのたった10分の間でもただただ読む。

立っていても、読む。

いつもはメールチェックをしているスマホもカバンの中。

まさに「一気に読む」という言葉が当てはまった。

そして思い出した、自分の「好き」に対する感覚を。


私は体が弱かった。

ずっとずっと、入退院を繰り返していたから、

私にとって本は友達のような存在だった。

入院しているベッドの上で、いつも側にあったもの。

面会の度に、

次はどんな本を親が持ってきてくれるのかが楽しみで楽しみで。

(親は次の面会までに読み終えないように、

どんどん分厚い本を持ってくるようになった)

通っていた公文教室の本棚の本を全部読んでしまって、

「新しい本が欲しい」と駄々をこねたり。

夏休みになれば毎日朝から晩まで図書館にいて、

図書館の人に顔を覚えられていたり。

(10年経って久しぶりに図書館に行ったら、それでも覚えてもらえていた)


きっと「好き」ってこういうこと。

壮大なことでもなく、

特別なことでもなく、

いつも当たり前のように側にあって、自然と夢中になれること。

その時間はいつもワクワクしていて、時間が経つのも忘れてしまうこと。

そんな「好き」を思い出させてくれた本、

それが『蜜蜂と遠雷』だった。

孤独を超える「好き」の力。

このお話は、音楽がテーマだ。

幻冬舎さんの特設ページによるあらすじは以下のように記されている。

私は、まだ音楽の神様に愛されているだろうか。
3年ごとに開催される芳ヶ江国際ピアノコンクール。
「芳ヶ江を制した者は世界最高峰のS国際ピアノコンクールで優勝する」ジンクスがあり近年、覇者である新たな才能の出現は音楽界の事件となっていた——。
自宅にピアノを持たない少年・風間塵16歳。
天才少女としてCDデビューもしながらも、母の突然の死去以来、ピアノが弾けなくなった栄伝亜夜20歳。
音大出身だが今は楽器店勤務のサラリーマン 高島明石28歳。
完璧な優勝候補と目される名門ジュリアード音楽院のマサル・C・レヴィ=アナトール19歳。
彼ら4人をはじめとする数多の天才たちが繰り広げる競争という名の自らとの闘い。
第1次から3次予選そして本選を勝ち抜き優勝するのは誰なのか?

登場人物は全員が「音楽」を愛している。

それはこの4人だけでなく、出場者も審査員も、全員だ。

「音楽」とはその名の通り、「音を楽しむ」。


「音楽が好きって良いよね~」

「才能に恵まれていて羨ましいよ」

「好きなことで食べていけるなんて幸せだよね」

どの分野でもそうだと思うのだけれど、

人は「見える部分の華やかさ」だけで

判断しがちなところがあると思う。

それは、スポーツでも、舞台でも、メイクでも、歌でも、料理の世界でも。

どこの世界でも、だ。


この本のなかでは、

「音楽」「クラシック」をテーマに、

その華やかさが圧倒的表現力で描かれていると同時に、

その陰で登場人物が個々に葛藤する様子も丁寧に描かれている。

期待、嫉妬、プレッシャー、悔しさ、辛さ、絶望、葛藤…。

その部分がしっかりと描かれているからこそ、

コンクールの舞台で脚光を浴びる登場人物に対し、

架空のハズなのに最大限のエールを送りたくなる。


「音楽」を媒介として、

一人ひとりの「生」が交錯し、

一人ひとりの「魂」が互いに共鳴し合うことで、

音楽の神様の微笑みが際立つ。

そんな世界が丁寧に丁寧に紡がれているのだ。


「神様に愛される」ということを、

「神様に愛されている」人たちを、

周りの人は単純に羨ましがり、称賛するけれど、

果たして本当に、

「神様に愛されること」は手放しで喜べることなのだろうか。

そんな「問い」とも向き合わせてくれる本。


「神様に愛されること」は時として孤独と生きることなのかもしれない。

孤独を引き受けて生きることが神様に愛されることなのかもしれない。

だけど。

神様に愛されることを心の底から引き受けた時、

「孤独を孤独にしない力」が人には備わっている。

そして、孤独を感じるからこそ、

誰かと、何かと繋がる時の「繋がり」がより一層光を放つのだろう。

そんなことを考えた。


「好き」だからといって、いつもいつも幸せであるとも限らない。

「好き」だからゆえに、

もがき苦しみ悩み離れてしまいそうになることもある。

「好き」だからこそ、パンドラの箱を開けるわけにはいかない。

開けてしまったら…取り返しのつかない「好き」が、

自分の人生を圧倒してくるから。

そんなことを全て乗り越え、「好き」を受け入れ、生きていく。

そこにあるのは、

ただただ「自分」と向き合うことだけ。

ただただ「自分」として生きるということだけ。


「好きなことで生きていけるって楽で良いよね」

この言葉のなんと空虚なことか。

この言葉のなんと刹那的なことか。

きっと、読み終わる頃にはそう思ってしまう。

だからこそ、

「好き」と生きていける人を私たちは羨望の眼差しで見つめると同時に、

私たち自身もそんな生き方を渇望するのかもしれない。

そしてそれは、私たちの体内に脈々と受け継がれてきた、

「生への飽くなき探求」があるからなのかもしれない。

「好き」が創り出す圧倒的エネルギーへの畏敬。

『蜜蜂と遠雷』の著者、恩田陸さん。

この作品は、500ページの大作ということもあるが、

なんと「構想12年、取材11年、執筆7年」の練りに練られた作品だ。

前掲した特設ページには、編集担当者さんのコメントが書かれていた。

「構想12年、取材11年、執筆7年」とは『蜜蜂と遠雷』のプレスリリースや新聞広告で使ったフレーズで、恩田陸さんの担当歴20年以上になる私にとっても半分以上の年月この作品に携わり、3分の1の年月、月刊連載原稿の催促を続けていたことになります。
長く一つの作品にかかわるといろいろなことがあるわけで、その最大が3年に1回、開催される浜松国際ピアノコンクールへの4度もの取材です。
ふつうは4度も取材しません。
取材といってもバックステージを観察するようなことはほとんどなく毎日、会場の座席に身を沈め朝9時から夕方まで審査員でもないのにひたすらピアノ演奏を聴き続けるだけです。
2回目以降、毎度「先生また行きたいんですか!?」と呆れたふりをしながらも、じつは無類のクラシック音楽好きの私は、しめしめとひじょうに楽しみにしていました。
まさに役得です。
この作品で私がやったことは原稿の催促以外なにもありませんが、4度の取材には音楽好きの私でなかったら、つきあえなかったかもしれません。それが作品のコクのようなものになっているといいのですが……。

「納得」と「畏敬」。

このコメントを読んで出た率直な私の感想と感情。

長編小説だから時間がかかるとはいえ、

まさか12年もかけて構想していたとは…。

これもきっと、

恩田さんが書くことが「好き」だからできることなのだと思う。

根底にある「好き」の気持ちが、

12年の歳月をかけても作品をこの世に生み出す原動力になったのだろう。


「好き」にはそんな力があるから。


小説を読んだ時、

確かに恩田さんの凄まじいとでもいうべき知識量に衝撃を受けた。

世にいう音楽を専門にしている人に引けを取らない知識。

クラシックに関する知識はもちろん、

小説内に出てくるジャズや演歌などの分野の知識、

コンクールの審査に関する知識、

ピアノに関する知識…音楽の世界のありとあらゆる知識。

(少しネタバレになってしまうが)原作では、

華道や養蜂の知識も必要な場面が沢山あった。


恩田さんは音楽家ではない、作家だ。

だけど、

この本にはクラシックファンをも唸らせてしまうパワーがあった。

それだけではない。この本は、

「音楽」をテーマにしながら「音楽」というものを

乗り越えようともしているようにも私には感じたのだ。


行間に生まれる<余白>。

場面と場面の交錯する<あいだ>。

そこに恩田さんの「魂」が込められていた。


私はこの本を読んで、

音楽を「音楽」と定義した時点で、

本来は音楽であったはずのものを「音楽」から外してしまう、

そんな「音楽」のもつ限界にも言及している恩田さんに、

畏敬の念を抱かざるを得なかった。


それは、言葉としての「音楽」の定義でもあると思うから。

新しい「音楽」の創造に向かって…。

恩田さんはこの小説を通して、

ご自身の表現の枠をも破ろうとしているように私には見受けられた。


「神様に愛されること」は畏れ多い。

だからこそ、

人がそれを引き受けて生きることにおののいてしまうのも、

もしかしたら当然の反応の一つなのかもしれない。


とすれば、

恩田さんは神様に愛されることを引き受けた人なのだろう。

「好き」が共鳴する時、〈あらわれる〉もの。

原作も映画もおススメなので、

ネタバレになるのでこれ以上書くことは割愛するが、

私の中で一番心に響いたのは以下の2つの場面を紹介したい。


師匠から「完璧」な演奏を求められるマサルが、

「音楽ってもっと自由で良いはずなのに、

どうしてクラシックは「枠」の中で表現しなければいけないんだろう。

もっともっと音楽を解放させてあげたい。

新しいクラシックを創りたい。」

と熱く語るシーン。

(前述の「音楽」の定義云々の部分と重複するが)


もう一つは、

幼少時の亜夜が母親に、

「世界が鳴っている」と言う場面。

そこでの母親の

「あなたが世界を鳴らすのよ」

という返しのセリフ。


この言葉は、まさに私の心を鳴らしたのだった。

「自分」が世界を表現するー。


共鳴するということは、

その場にあるモノとモノが、

互いに影響し合い、その場が震える、ということ。

元々は物理の世界の言葉だが、

それって、モノではなく人でも同じことが言えるだろう。

例えば、

生徒と教師の関係だって、

患者と医療従事者の関係だって、

客と店主の関係だって。

もっと言うならば、

人と人の関係そのものに対して。

人と人が交錯する場所にある、

「共鳴」にフォーカスすれば、

その〈あいだ〉で震える「何か」があるはず。

その「何か」が、

一人ひとりの存在を照らし、「自分」に還るエネルギーを生み出す。

人は唯一無二の「自分」だからこそ、

誰かとの関係の中で「生きる」ことを選ぶのだろう。

共鳴することを通して、自分が「自分」で在ることに気づくために。


『蜜蜂と遠雷』は、

登場人物同士の見えない「共鳴」がとても繊細に描かれていた。

その共鳴は、

本人が気づかないところで、また、相手が気づかないところで、

見えないながらも確実に存在した。

そしてそれを、読者や観客に「見せて」くれることで、

私たちの共鳴が生まれるのだろう。

共鳴は「命」が紡ぎ出すエネルギーだと思うから。

余談(映画のみどころ)

原作では、文字通り「音」にはなかった、

コンクールの課題曲『春と修羅』。

これが映画では、「音」として表現されている。

「あぁ、こんな「音楽」だったのかぁ」

と自分の想像と比較して聴いてみる体験は心地良かった。

また、『春と修羅』内にある演者自身が自由に弾くカデンツァ場面。

ここも4人の「色」が、「音」として表現されていて、

個人的にはとてもワクワクした。

…という個人的な映画のみどころ。








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