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私がしていたのは「信じる」ではなく「信じたい」だった

こんにちは!大野夢月です。

今回は、HeaRのインターン生としてではなく、大野夢月として最近考えていた「信じる」についてnoteに残します。

いつもどこかで猫を被ってしまう、強がって本音が言えない、そんな人に共感してもらえると嬉しいです。

「信じる」ってなんだろう?

突然ですが、人のことを信じていますか?
何を基準に「信じている」と言えますか?

・秘密や黒歴史が話せること
・大事な仕事を任せれること
・「助けて」と素直に言えること  などなど
人それぞれ様々な基準があると思います。

私も人のことを信じていると思っていました。比較的なんでも話せる人がいるし、好きな人は疑うこともありません。

しかし、先日友人から「大野って人のことほんまに信じてる?」と聞かれてビクッとしました。

私にも親友と呼びたい人がいます。でも、親友だからといって信じているか?と聞かれたら少し不安になる部分がありました。

私にとって親友は、私のことを理解しようとしてくれる大切な存在です。何かあれば必ず駆けつけるし、辛い時は側にいたいし、一緒に楽しいを共有したいと思っています。

しかし、私が親友にそれを求めることはありません。
なぜなら私がしていたのは「信じたい」だったからです。

私がこれまでしていた「信じたい」

信じることは簡単なこと 疑うよりも気持ちがいいね
遥か / GReeeeN

これは私がとても好きな歌詞です。小学生の頃にこのフレーズを聞いてから、私は人を疑うことをやめました。
私の根本的な価値観として「人にされたいことは、まず自分からする」という考えがあるため、「人に信じてもらうために、人を疑うことをやめよう」と決めました。

「疑わない」ことを続けた結果、疑うことに罪悪感を抱くと同時に、「信じる」ことができていると思い込んでいました。

「疑わない」ので、知人や恋人が私のことを都合よく扱っていたとしても、頼ってくれている!なんて本気で思っていました。
たとえ女の勘が働いたとしても、感情に蓋をしてきました。
相手の意見が違うんじゃないかなと思っても、「疑われた」と勘違いさせないために本音を伝えることも避けました。

その結果、「八方美人」と言われるようになりました。
「疑う」というコミュニケーションは、会話に波風を立ててしまうように感じます。
私は人から嫌われることを極度に怖がるので、むしろ八方美人の方がちょうど良い、とさえ思っていました。

そしていつも笑ってる人、ポジティブな人、恋多き人など、人によって色々な猫を被り続けていました。

「信じたい」に気づいた日

月日は流れ、就活が始まりました。
偶然にも私の友人は、専門職に進む人が多かったため就活の話をすることはありませんでした。いや、私自身が「理解してくれない」と決めつけていたのかもしれません。

そんなある日、私は就活で挫折をしました。いつもなら「嫌われても良い」と思える都合の良い男性に相談して、心の寂しさや辛さを埋めていました。しかし、タイミングが良いのか悪いのか、都合の良い人がいません。

そして初めて気づきました。
友人に頼りたいのに頼り方がわからない、と。
「嫌われてしまうのではないか?」と思うと、就活で挫折していることや自分のキャリアに迷っていることが怖くて言えません。

でも、独りでいたらもっとダメになりそうな気がする、そう思っていつも現実逃避させてくれる存在の友人に電話をかけました。

そして、いつものように友人は、一方的に私に話をします。私の感情などはお構いなしに、とにかくたくさん話してくれるので、その話に集中していると現実逃避ができました。

でも、友人は私の様子がおかしいことに気が付いていたみたいです。そして、「何があったん?」と私が話しやすいように誘導してくれました。
初めて、その友人の前で泣きました。それはそれは、思い出すだけでも情けないくらい、「どうしていいかわからない」なんて台詞を吐きながら泣きました。

私の涙が落ち着いた頃、友人は言いました。
「もっと周り頼りや、お前人のこと信じてないやろ。
お前が思っている以上に周りは離れへんから安心しろ」と。

その時に私は、今までしていたのは「信じる」のではなく、自分を守るための「信じたい」だったと気づきました。
嫌われたくないから疑わない。現実を知って傷つきたくないから信じたい。
私の中では相手のためにしていたことが、実は全部自分のためだけの行動だったことに気づきました。

そして、そんなことに気づきながらも、私のことを信じてくれる人がいることも痛感しました。本当に仲良くしてくれる友人には感謝しかありません。

「信じる」ためには

「信じる」の対義語は「疑う」です。
しかし、これは文学的なお話です。
私はこう考えます。

「信じる」の反対は 「心を閉ざす」

自分が心を開かない限り、相手を信じることはできないと私は思います。
いくら相手を信じていると思っていても、相手は信じられていると実感できません。また、心を閉ざし続けている限り、いつまでも信じて欲しい人の前で猫を被ることになります。

もちろん、全ての人に自己開示する必要はないです。
しかし、「信じてみたい」と思った人には本音を伝え、ちゃんと人と人で向き合うことで初めて、「信じる」ことができるのではないかなと思います。

最後に

私もまだ人を「信じている」とは言えませんが、少しずつ「人から嫌われたくない」という感情に向き合いながら自己開示を続け、心から通じ合える人を増やしていければ良いなと思います。

最後まで読んでくださりありがとうございました!

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