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フェリス・ホイール 4


 君がやってきたあの日から、とうとう48日目になってしまった。

 今までが奇跡だったのかもしれない。鍵が合う扉のあるゴンドラが、この観覧車の最後の48番目だなんてことはあるだろうか。

 毎日一機ずつ、鍵の合わないものに乗り込んで、ずっと最後の一機を待っていたかのような。
 それならば、全て「はずれ」である方が不自然じゃない気がするんだけど。それなのに、僕はやはり今日がその日である予感がしたんだ。

 僕がユ23の窓を拭いていると、いつもの道を銀色の点がゆっくり移動してくるのが見えた。だから僕は、この次の窓拭きを、あれに決めたんだ。

 サ18、そう、君が今日乗るゴンドラだ。僕が最後にきれいに拭き上げた窓から世界を見てほしい。これが当たりであろうとなかろうと、きっと僕たちの別れになるのだから。

 その1周は、まるでスローモーションのようだった。
 今まで来る日も来る日も僕は窓を拭いてきた。そんな僕がこの空間だけを止めたいと願ったなら、せめて今だけ、時はゆっくり流れてくれてもいいじゃないか。なんて身勝手な想いが叶ったかのように。

 僕は時々道を目で追いながら、今君がどこにいるか確かめる。銀色の点はぐんぐん近づいてくる。君がまもなく最終コーナーを回る。そして、もうすぐキップを取り出して、これに乗る。

 ほんとうは、いつものようにベンチに座ってもう一度君と話をしたかった。今まで過ごした日々を振り返って、握手なんかできたら、いいのにな。そんなことを思っていた。でも、同時にそれは、別れを認めるようで怖かったんだ。

 まもなく地上にサ18が着く頃、サラ・ターナーの姿がはっきりと現れた。今日はモスグリーン色のリボンを髪に巻いている。
 君がキップを渡す。僕は扉を開け、地上に降りる。そしてその扉を押さえたまま、どうぞ、とお姫様にあいさつをする。

 降りた僕と行き違いに、ハイタッチを交わすために、君が右手を挙げた。
 僕も万感の思いをこめて右手を上げようとしたその瞬間、サラは僕の腕をつかんで、僕をぐいっと引き寄せた。

 思いの外、強い力だったので、僕はそのままサ18のゴンドラに押し戻されるような形になって、椅子に思い切りひっくり返った。
 僕が観覧車の椅子に座ったのなんて、何年振りだろう。いつだって立っていたから、とてもとても不思議な気がした。

「サラ。あと15秒で扉が閉まるよ」
「いいのよ。休憩時間でしょ。私につきあって」
 そんな会話をしている間に、ゴンドラの扉は外側から閉じられ、カチっと鍵がかけられた。
 ゆっくりと上に向かっていく、僕らの号機。

「あなたはきっと最後に、これを磨くって思ってたわ。私のためだけに」
「君が『サ18』を最後に残したのには、理由があるの?」
「カケルの一押しの子なんでしょ、これ」
 サラはおかしそうにくすくす笑って言った。
「最初にロット番号を教えてくれた時、3番目の『サ18』に、すごく愛情を感じたの。色も私のすきなモスグリーンだった」

「さあ、どうぞ」
 彼女はバッグから赤いチェックの水筒を出して、二つのコップにあたたかい液体を注いだ。ココアかな、その上にサラはマシュマロを浮かべる。
 一口飲むと甘くて、ほわっと体があたたまった。マシュマロは今日の空の雲のように乗っかって、少しずつ溶けていった。

「いちばん上に着いたら、この鍵を試してみるわ」
「開いても、開かなくても、今日でお別れなんだね」
「そうね。開かなかったら、またどこかの観覧車を探すの。見つかるまで、ずぅーっとね」

 どうして観覧車は1周が15分しかないんだろう。他の乗り物よりも長いことは知っている。15分が長く感じる人がいることも。でも、今の僕には短すぎる時間だ。しかも上までは、その半分の時間しかない。

「今日だって気がするの」
 僕もそんな気がした。二人で窓の外を眺めた。ゆらゆら空が揺れている感じがする。今日はそんなに風が吹いていただろうか。まるでゆりかごのように気持ちがいい。

 僕は僕の心を全てスクリーンに切り替えて、君を思いきり見つめる。こんなに近くで、真正面で、目の前の人に全ての焦点をあてたのは初めてだった。

 サラの青い瞳はやっぱり揺れて、きらきらして零れ落ちそうだ。
 君が窓の外を見る。僕が磨いた窓から星を見つける。
 まあるい月がレモンビスケットのように浮かんでいて、天辺に着いたら取ってあげたい、そんな風に思って、君を見つめていた。

 サラ、サラ。僕は夢の中のように、何度も君の名前を呼んだ。

 気がついたら僕は、観覧車のゴンドラの椅子ですやすや眠っていて、外からのノックで目が覚めた。
 え、どうして。ああ、そうだ。急に眠くなってしまったんだ。

「あれ、サラは?」
「サラ? 誰だい、それ」
 切符切りのルイ君が、怪訝な顔をする。
「一緒に乗っていた銀髪の女の子だよ」
「は? カケルは一人で乗ってたでしょ」
「ここのとこ毎日、観覧車に乗りに来てた子だよ?」
 サラ程の女の子が、記憶に残ってない訳がない。
「カケル。おまえ、夢でも見たんじゃないのか」

 サラ・ターナー。彼女は、僕だけに見えていた幻だったのだろうか。
 それとも、君はみんなの記憶を操って、消してしまったのか。
 それなら、僕はどうして覚えているのだろう。
 もう会えないなら、それって残酷じゃないか。また僕は、頭の変な奴だって思われる。いや、そんなことはどうでもいい。

 空を見上げたら、ちらちらと今年の初雪が降ってきた。やわらかくやさしく、僕を包み込むようにそっと。

 手のひらに落ちた雪の欠片を見ていたら、急に取り返しのつかないことをしたことに気付いたんだ。
 出会った時からいつか何処かに行ってしまう人だとわかっていたから、いや、僕なんかの手に届く人じゃないから、すきになり過ぎないように注意してた。
 だからどんどん高鳴る自分の気持ちに蓋をして、君を理解したいだなんていい顔を作って、隣でうなずいて。最後までそうやって当然のように別れを受け入れていた。

 ねえ、君は鍵を開けて、僕の知らない世界に旅立ってしまったの? それとも、また別の観覧車を探しに出かけたの?
「カケル、またね」
 ふと僕の中に君の声が響いた。記憶を手繰り寄せると、微かに最後にサラが耳元でささやいた声を思い出した。

 僕はもっと叫べばよかった。抵抗するべきだった。たとえこの想いが届かなくても、伝えればよかった。一歩引いたところにいたら、つかめるはずがない。

 会いたいよ、サラ。
 世界中どこの観覧車の窓でも拭きに行くから、今いる場所を、僕に教えてほしい。

 頬にあたたかいものが伝って、僕は君だけのことを考える。空に向かって全力で願う。
 ヒーローにはなれなくても、君の近くで見守ることはできるから、もう一度会いに来て。

 お願いだ、サラ。僕のたった一人の愛しい人。



fin.



いつか自分の本を作ってみたい。という夢があります。 形にしてどこかに置いてみたくなりました。 檸檬じゃなく、齧りかけの角砂糖みたいに。