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6 バース 水の揺らめき③

「面影を追い続ける男」 6 バース ー水の揺らめき③ー


 橋の横の石段を下りると、川沿いに散歩道《フットパス》が駅の方向へと伸びている。ゆったりとした日常を横目で見ると、自分が歩く方向にも平和が流れて付いて来る。

 にぎやかな声がする芝生のグランドでは、少年たちがサッカーゲームをしている最中だった。いや、イギリスではフットボールと呼ぶんだな。

 日曜の試合。片方は白と黒のストライプのユニフォーム。
 もう一方はグリーンにオレンジのラインが入ったシャツを着ている。

 全員が、時々ゴールキーパーまでもが、自分のポジションなど忘れてボールに群がっている。苦笑する。いいコーチが必要だな。まだ目の前のことしか見えていない少年たち。

 こどもの頃、辺りが真っ暗になってボールが見えなくなるまで野球をしていた、あのグランドの情景の空気と一瞬でつながる。ピアノを選んでからは、球を投げることもなくなった。
 もう長いこと、故郷に帰っていない。

 女の子がベンチに腰かけて、ボールをくるくる片手で回しているのが目に入った。
 薄暗くて顔は見えなかったが、さっきチェロ弾きの前に飛び出した子と同じに思えた。

 彼女は立ち上がって、ボールをバウンドさせてから背中で受け取る技を鮮やかにこなした。キャッチする瞬間、背中はピンと伸びて美しかった。

 サッカーに夢中の少年たち。ボールに夢中の彼女。
 どちらも振り向かない。

 サッカーを見ている女の子と、女の子を見ている自分。
 それは心地よい一方通行だった。

 試合が終わり、少年たちが帰り支度を始めたのを見て、俺は来た道を戻りかけた。

 ふと、毎日曜の夜にバース・アビーの合唱隊を見に行っていたことを思い出した。今もまだ変わっていないか、確かめてから行こう。

 夜になっても広場は人で溢れていた。
 アビーの入口にも列が出来ている。すっかり有名になったものだ。
 聖歌隊の列が小さなロウソクを掲げながら、一人ずつ入って行く。

 耳を澄ますと、パイプオルガンに合わせて、子供たちの合唱が聴こえてくる。
 歌う子供、見に来る人が変わっても、時折音程をはずす歌声は変わっていない。そのせいで和む空間。

 讃美歌がそこら中に揺らめいている。変わらない景色もあるんだ。
 夕陽を通したステンドグラスがまぶしくて、思わず目を閉じる。
 鮮やかに浮かぶ、彼女の横顔。もう一度君に逢いたい。

 煙草に火を点け、再び坂道を上る。
 あの日と同じような風が髪を揺らす。センチメンタルにはまだ早い。

 ライターをしまうと、写真が手に触れた。
 二年前にここで撮った、二人が笑っている写真。誰が撮ったものだったろう。

 部屋中探しても、この写真一枚しか残ってなかった。
 荷物を抱えて出て行った彼女と共に、たくさんあった他の写真は何処に。何故、この一枚だけ残していったんだ。

 クラブの入口の看板に、女性歌手の名前が書かれていた。

 店内は全く様相を変えていた。
 昔は灯りを落として、テーブルランプだけのやさしい光だったのに、今、目の前にあるのは、天井から吊り下げられた明るすぎるシャンデリア。
 客層もやけに気取って正装している中年夫婦ばかり。店員も覚えている顔はいない。

 そして、一番落胆したのは、歌っている女だった。
 オペラ風に頭の上から高い声を絞り出す、背が高くがっちりした女。
 声が塊になって、壁から壁にぶち当たり、加速度をつけてテーブルの上のものをひっくり返しそうだった。

 わかってないな。ここに合うのは、低くささやくような歌声なんだ。
 経営者がイタリア人になったに違いない。

 目が合った店員に写真を見せる。
「ここで見かけたことはありませんね。でもこの人、どこかで見たことがある気がするけど。ほら、この人に似た歌手がいたでしょ。名前は……、すぐに出てこないけど、最近急に見なくなった人」

 俺は黙って店を出た。ここにも来ていない。





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いつか自分の本を作ってみたい。という夢があります。 形にしてどこかに置いてみたくなりました。 檸檬じゃなく、齧りかけの角砂糖みたいに。