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7 コッツウォルズ 幻の馬①

「面影を追い続ける男」 7 コッツウォルズ ー幻の馬①ー



 バースの北からストラトフォードの手前までは、丘陵地帯が広がっている。
 この辺りはコッツウォルズと呼ばれる地方で、その名が示す通り、昔は羊毛で繁栄した村落があった。

 ここがマリアの生まれ故郷だ。彼女の子供時代はあまり幸せなものではなかったらしく、俺はこの地方で生まれたという事実の外は、詳しいことは知らなかった。

 起伏がやや大きくなった道を走らせる。
 遠くから見た時に平面的だった緑の丘の風景は、一歩入ると急に立体的に膨らみ、車は上下に大きく揺れた。
 マリアが生まれた家は今もまだどこかにあるのだろうか。

 道の向こう側から一頭の馬が駆けてくる。
 とてもゆったりと走ってくる馬とすれ違った時に、かすかな記憶がスローモーションでよぎっていった。
 心の中の引き出しが勝手に開き、ずっと忘れていたシーンが鮮やかに蘇るのを静かに待った。

 あれは寒い朝だった。場所はどこかはっきり覚えていないが、俺たちは森の中を歩いていた。真冬の厳しい寒さは過ぎたが、白霜が早過ぎる朝の薄い光の中できらめいていた。

 まだ誰も起きて来ないような時刻なのに、向かっていく方向から地響きのような音が聞こえてきた。
 俺はその時に初めて、彼女の故郷の話を訊ねたのだった。
「冷たい風が吹くところよ。ただそれだけ」

 彼女は強引に話を打ち切り、俺もだんだん大きくなる音が気になって、それ以上は聞かなかった。
 森を抜け視界が開けた先は、だだっ広い土の多い平原で、そこを何十頭もの馬が駆け回っていた。レース用の馬たちを調教する場所らしかった。

 荒れ野にひたすら馬を走らせる男たちの姿には、近付き難い真摯な雰囲気があり、圧倒された。儀式のようであり、神聖的ですらあった。

 一斉に円を描いて走り始めると、草から上気した湯気が輪になって馬たちを包み込む。
 最初はゆっくりした足どりでスタートし、段々早足に、そして駆け足になり、ついには四本の脚全てが地上を蹴って離れ、飛び上がる。

 雲のように濃縮された空気をかき分け、さざ波の翼をつけて走る馬たち。何かのきっかけで円が切れたら、そのまま地平線を越えて放浪しそうな勢いのある走りだった。





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⇒ 「面影を追い続ける男」 目次


いつか自分の本を作ってみたい。という夢があります。 形にしてどこかに置いてみたくなりました。 檸檬じゃなく、齧りかけの角砂糖みたいに。