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1 ロンドン 出発
「面影を追い続ける男」 1 ロンドン ー出発ー
男は車のキーを回した。旅の始まりだった。
行方不明の彼女を追いかけて何処までも俺は行く。ロードマップを広げ、最初の目的地を決める。まず、ソールズベリー。ここからにしよう。
ゆっくりと車はM3の方向へ動き出した。
*
昨晩、男はパブで酒を飲み続けていた。
シティにあるそのパブは金曜の夜は常にパーティのような喧騒に包まれていた。大声で今日の取引について話し始める人々。ほとんどがこの界隈の証券取引所に関係ある男たち。自分たちが他人とは違うことを疑わない人種。
そんなスーツ姿が似合う英国人たちの中に、時折赤い花のような女たちが笑いさざめく。彼らは一気にグラスを傾けない。ぬるいビールを少しずつ喉に湿らせていく。
男は長身で、その細身の体をさらに際立たせる全身黒い服を着ていた。そして店の奥のテーブルで、指先を入れ替えては組む動作を絶えず繰り返していた。
男の周りだけ音がなかった。人々がどんなに大騒ぎをしても、彼には何も聞こえず、彼の目には、まるで世界が止まり、人々はスローモーションで動く機械じかけの人形のように映った。
棚の上のウィスキーは埃まみれで、見渡しても透明な瓶は一つも見つからない。新しく仕入れるたびにわざわざ古い瓶に入れ換えるのだ。床は二百年以上も掃いていないらしい。多分それは大袈裟な嘘だと思うが。
ここは汚さが売り物という変わった店だ。「ダーティ・フィルズ」とは、元は結婚式の前日に花嫁を殺されたフィルの家だと言う。こんな不気味な店が何故流行っているのか、よくわからない。人間は暖かい場所ばかりが居心地がいいわけではないということか。
夜が更けるにつれ、周りの空間は高い天井からの風に吹かれて広がり、店の暗さを際立たせていた。
三日前に彼女は彼の許を去って行った。短い手紙と指輪をテーブルに残して。
もうこれは何杯目だろうか。表情を変えずにこちらの目をじっと見つめ返すバーデンダーに、最後のスコッチを頼む。店が閉まる前にここを出よう。自分にスポットライトが当たる前に。
重い扉を押すと、外は雨が降っていた。傘を差す程ではない小雨がロンドンではよく降る。いつも気になったことなどないのに、今夜は雨の粒がはっきり見える気がした。
*
部屋に辿り着き、気がつくと冷たい床で眠っていた。床は水浸しで自分もずぶ濡れになっていた。体じゅうが震えてきて、急いで服を脱ぎシャワーの栓をひねる。熱い滝の中で自分の頭を整理しようとしたが、思い出したのは彼女が消えたという事実だけだった。
薄明かりが射し込み始めたバスルームを出て部屋の灯りをつけると、オレンジ色の海が床中に漂っていた。雨と酒と自分が吐いたものが混ざって揺らめいている。ロクに食事もしてないから胃液しかないんだな。
ウォッカの瓶を一本一本拾い上げて机の上に並べてみる。ベッドからシーツを引き剥がし、床に向かって網のように投げ打った。みるみるうちに染みが浮き上がり、上からそれを押さえてみる。「カッコ悪いな」とつぶやいてみた。本当にそう思った。卑屈な思いが延々と引きずられていく。
*
空気だけが清々しい朝だった。彼は石灰分の多い水道水を沸かし、熱い紅茶を入れる。いつしか彼の役割になっていたいつもの朝の行動だ。つい二人分入れたりすれば習慣について驚いたりしたのだろうが、彼はきっかり一杯分だけお湯を注いだ。そして、そのことに特に気付きもしないようだった。
新聞を隅から隅まで目を通す。興味がわかない一面の有名人のスクープ記事以外は全て。どこにも彼女のことは書かれていなかった。
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いつか自分の本を作ってみたい。という夢があります。 形にしてどこかに置いてみたくなりました。 檸檬じゃなく、齧りかけの角砂糖みたいに。