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胸のボールペン

 17歳だった。

 彼の横顔がすきだった。正面から見ると少し目が離れてて爬虫類顔なのだけど、横顔になると端正なシルエットで見惚れたんだ。
 私はいつも黒板を眺める振りをして君を見つめていた。

 目が悪いくせに眼鏡をかけるのが嫌いなのが同じで、私たちは席替えの時に前の方の席を譲ってもらうグループにいた。だからいつも近くの席。なぜか隣にはなかなかならない斜めの間柄。

 少し猫背にノートに書く背中、細いシャーペンを時々回す指先、真剣になると唇をとがらす仕草、遠くを見る時目を細める癖。そんな毎日を見られるのが嬉しかった。

 でも、彼はいつも男子に囲まれてバイクの話で盛り上がっていたから、あまり話しかける機会はなかったんだ。

 急に汗ばんで光がまぶしくなってきた初夏の午後だった。帰りがけに寄ったデパートで彼と偶然出会った。
 階段の途中で目が合って、びっくりしたままの私に
「ねぇ、数学のノート持ってる?」と唐突に君は聞いた。
 こくんとうなずくと
「眠くて写しそびれたとこがあんの。見せてくれる?」
と、私を見てにっと笑った。

 踊り場にあったベンチに並んで腰かけて、彼が私のノートを写すのをずっと見ていた。
「やっぱり。きれいだな」
 ほめてくれた言葉が気恥ずかしくて何も言えないまま、このままずっと一緒にいられたらいいのにって、初めて思ったのを覚えている。

 きれいだな。
 言われたのは字のことだよ。でも、その響きが嬉しくて。

 これは神さまのご褒美なのかな。さらさらした髪、きちんとした白いシャツ。
 そういえば、彼は母子家庭なのだと聞いたことがあった。お母さんお仕事大変なのにワイシャツにアイロンかけてくれる人なのかな。
 一つ外したボタン。そこから石鹸の匂いがしてきそうな清潔感のある人。

 チクタクチクタク。時計の秒針が聴こえてきそうなほど、どきどきした午後の時間。すっぽりと空気の層が私たちをこのまま包んで、空に飛ばしてくれればいいのに。

「サンキュー」そう言って、写し終わった彼は走って行ってしまった。
 ただ私にそばで見つめる時間だけをくれて。
 ノートを返された時に、ほんの少しだけふれた手のあたたかさが、私の中にいつまでも残る。

 私にとっては特別になったその日のできごと。でも、だから、何かが変わったわけでもなく、今までと同じ。ただのクラスメイト。

 真夏の昼休みだった。教室と廊下の間の窓も、休み時間には全開にして風を通していた。まだエアコンなんて洒落たものはなくて。
 廊下で友だちとお喋りしていたら、彼がその窓をひょいと軽やかに乗り越えて、まっしぐらに私に向かって走ってきた。

 え? なに? って思うまもなく、「貸して」と、私の胸のポケットに入っていたボールペンをすっと抜き、どこかに去って行ってしまった。

 確かにふれた彼の手。少し押された胸のどきどき。
 男子たちが囃し立てる声。友だちの「なにあれカッコイイ」という感嘆符。
 一人残された私だけがみんなの注目を浴びて、顔が熱くなる。

 いつだって君は突然だ。いつも走り去ってしまう。
 私は遠くなる彼を見つめたまま、心だけ一緒に持って行かれて、ぽけっと立っていた。

 それからは、ほんの少しだけ、他の女の子より近い存在。それはきっと席の近さくらいの優位さで、たいした距離じゃないけれど。

 文化祭の頃、他の男子たちと近くの女子高に行った話をしてた。
 かわいい女の子がいたんだって。こいつ今度デートするんだぜ。そんな話を目の前でされてしまって、世界が終わったような気がした。
「そうなんだ。いいね」
 ちっともよくなーい、と思いながら、気軽な感じで言ったら、めずらしく照れたように笑うから、そんな顔をさせたその子がうらやましくなった。

 しばらくたってから、内心はどきどきしながら
「彼女とのデートどうだった?」って聞いたら
「ああ。やめた」って。
「思ってたような人じゃなかったの?」
「彼女転んで前歯が欠けてたんだよ。悪いと思いつつ、おかしくて笑ったらフラレタ」
 ひどい人だーって思いながら、どこかでほっとした私は、もっと酷いね。

 3年になって、別のクラスになってしまった。
 私の視界にいつもいた君がいなくなってしまう。あと1年しかここにいられないのにって悲しくなる。想定していたより更に短くて、ただ時々見かけるだけになってしまう。

 いつも彼は定期テストの朝は、早く登校していた。今もそうだろうか。
 テストの初日、試しにいつもより2本早い電車に乗った。彼は自転車通学だから、駅から学校までの道で会うことはない。
 彼のクラスを覗いたら、あ、いた。何人かクラスの人もいるけど、一人で勉強している。

 ね、すごく躊躇したんだよ。だって、ほんとはテスト勉強、誰にも邪魔されたくないでしょう? でも。

「佐伯君。数学でわからないとこあるんだけど、教えて」
「ああ、いいよ。見せてみ。どこ?」
 私は、昨晩必死で探した問題を見せる。
 あまりに簡単で莫迦な質問にならないように、かと言って、彼を困らせる程の難問でもだめ。適度に考えたらわかるような、説明に少し時間がかかるような問題。
 それを見つけるのにすごく時間がかかっちゃって、テスト勉強全然できてないという、本末転倒。

 彼はシャーペンをくるくる回しながら少し考えて、自分のノートの端っこに図を書きながら、丁寧に教えてくれた。私は内容よりも彼の声を確かめながら、すぐそばに座っていることを大切にしながら、そこにいた。
 ずっとこうしていたかったんだ。教室以外では、あの夏のデパートのベンチ以来だ。

 あまり長居しちゃいけない、と席を立とうとした私に
「じゃあ、国語のヤマはどう? 得意科目でしょ」と尋ねてくれたやさしさ。
 邪魔じゃないよという意思表示が嬉しくて、少し震える声で「ここかな」って、頁をゆびさしてみせた。

 それからも時々、私はさも通りかかった振りをして彼のクラスに行っては、何かしら話しかけていたんだよね。さりげなさを装ったつもりで、ちょっと寄ったみたいに。
 ううん、どう見ても他の人には気持ちが駄々漏れだっただろうけど。伝わってないのは本人にだけだった。きっと。

 お弁当をたべてる時にそっと近寄って話しかけたこともあった。おかず何が入っているのかなぁって好奇心もあって。めっちゃ茶色の地味なお弁当だったね。
 その時、だいすきな釣りの話をしてくれたっけ。
「やまめ、って知ってる?」って言いながら、昔のお父さんが持ってるような平たい銀のお弁当箱のふたの裏に、こう、って箸で漢字を書く。
「山女魚」で、やまめって読むんだ。
「ふぅん。どんな魚? 川魚? 昔、長瀞で刺さってる焼き魚、食べたことあるかも」
「それは多分、岩魚《いわな》だな。山女魚はもっと下流でも釣れるんだ。刺身で食べるとうまいんだぜ」

 すきなことを話してくれる君はとても嬉しそうで。私はこうして話ができると、ほんのりとあたたかくなった。
 でも、反対に君がやって来ることは一度もなくて。いつも自分ばかり声をかけて、迷惑だったらいやだな、って思いながら、少しずつなくなっていく勇気。

 ちがうクラスの垣根を越えて歩み寄るって、割と度胸がいるんだよ。なんとなく、他の女子の目も気になるし。
 受験勉強に入って、さすがにのん気な感じも出せなくなって、もう遠くからただ見ていた。
 ついでにインフルエンザにかかってしまって、肝心の卒業式に出られないおまけつき。

 卒業おめでとう。クラスメイトが電話をくれて、誰かが誰に告白したとか教えてくれたけど、彼はどうしたのかな。
 君はすきな女の子、いたのですか。私のことはどう思っていましたか。

 大学に入って1年が経った、ある晴れた午後。
 文房具店でノートを見ていたら、私に向かって近づいてくる足音がした。
「久しぶり」って、忘れられないあの声。

「元気?」
 突然のことになかなか言葉が出てこない私に
「遠くからでもすぐにわかったよ」って。

 それは、私が全然変わってないって、ことなのかな。
 そういう君も、全然変わってなくて、でも詰襟じゃなくて私服で。ストライプのシャツなんか着ちゃって、やわらかく見えた。
 眼鏡、かけてないね。目も細めてないから、きっと君もコンタクトなんだ。

 何を話しただろう。確か今どうしてるとか、誰と会ったことがあるとか、そんな他愛ないこと。
 そっと腕時計を確認して、「じゃあ行くね、バイバイ」と手を振って、さわやかな笑顔で去って行ってしまった人。

 私はその日、お気に入りのチェックのワンピースを着ていたことだけが、その姿を見てもらったことだけが、あとから思い返して、ずっと嬉しかったんだ。
 
 あの時と同じ季節がまた巡ったんだね。風がさわさわと頬を撫でていく。
 君は、今も元気ですか。
 私はまだ、少しうつむいた君の写真を持っているよ。何度も見つめたあの横顔のね。


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writoneで 音声化もして頂いています。


いつか自分の本を作ってみたい。という夢があります。 形にしてどこかに置いてみたくなりました。 檸檬じゃなく、齧りかけの角砂糖みたいに。