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14:18才でのおわかれと「ボクハ・キミガ・スキ」

それでも初恋は2年続き、高校3年生で私は家庭の事情で心がズタズタに引き裂かれたのもあり、これ以上傷つきたくないから別れた。

でも寂しいのも会いたいのも、抱き締められたいのも私の望みなだけで、彼もそう思ってくれないと嫌だった。
嫌なのも私の勝手である。
電話をかけたい気持ちを我慢して、夜中に自転車で駆けずり回るのも、私が勝手にやっていることだ。

後々に何人か似た人に出会うが、恋人は趣味や好きなものはあるものの
「それのどこが好きか」
を語ることはできない人だった。
なんとなく、とか、この曲のメロディが、とかばかりで、具体性がない。
多分、理由なんてなくて、好きになっただけで十分で、そこより先は追究しないのだと思う。
追究しすぎても私のように理屈や分析癖ができて、嫌になるが。

彼は多分、私が好きであることに理由なんてなくて、私という恋人がいれば、それで満足だったのかもしれない。
どこかに遊びに行こうとか会いたいとかも言わず、長いこと連絡をしなくても同じ調子で電話で話した。
私が内心の中にいるだけで十全で、私が求めるものを与えるなんてことも、考えてなさそうだったし。

でも彼が私のことを好きなのはコミュニケーションを取れば伝わり、だからこそ距離を取ることができない。

憲法に
「思想信条の自由」
「内心の自由」
が保障されてるが、恋愛は基本的には一人でできないものだし、同じ心の持ち主は誰一人としていないから、どう頑張ったところで他者の自由を侵犯する。
私が恋愛が嫌いな部分はそこだ。
どうあがいても人の心を踏み嵐荒らされ、束縛する、される。

ずっと片想いであればいっそ、一人でグチャグチャになってれば済む話だというのに、やっぱり相手にも私を
「同じくらい」
好きでいてほしい。

誰かを好きになるというのは、なんと無様で身勝手なことなんだろうか。

好きという気持ちはただのワガママ

谷山浩子がそう歌っていた。
実際、最初の恋人には、ワガママをぶつけては困らせてばかりだった。
でも、彼のワガママは
「私という存在だけで満足すること」
で、これは私を酷く寂しくさせた。

「僕も君のことは好きなんだけどね、好きなだけで良くて、どうしたらいいのかわからないんだ」
と、困惑した彼は何度も言った。

それは愛の言葉ではなく、呪詛に聞こえた


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