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小説の評価は「他者の評価」に左右される(そもそも読んですらもらえないことも…)

「日本人は『他人の評価』に影響されがち」だと言います。

美術など他の分野でも、賞の受賞実績や「その道の大御所のお墨付き」が無ければ評価されず、それゆえ日本を出て海外に渡り、そこで評価を得、それにより日本でも再評価される…そんなケースが数多くあります。

「誰か他の人間が『既に評価』していなければ、安心して評価できない・手も出せない」…そんな意識が、日本人の心の奥底に、知らず知らずのうちに根付いているのではないでしょうか?

何かと言っては「ランキング」がもてはやされるのも、そんな意識によるものなのかも知れません。

ランキング上位だったり、人気があったりする作品は「自分にはよく分からないけど、きっと良いものなんだろう」というバイアス思い込み)が、心の中に潜んでいるのではないでしょうか?

逆に、自分が「なんとなく面白い」と思っても、順位が低かったり人気が無かったりすると「なんとなく評価しづらい」「実はそんなにおもしろくないんじゃないか」と思ってしまうのではないでしょうか?

その結果、ポイントや順位が高い小説にはすぐに手が伸びるのに、低いものは読みもせずに「スルー」してしまう人が、多く発生してはいないでしょうか?

ポイントや順位が低い小説には、(人が集まらないので)さらにポイントが付かず、評価や感想も集まらないという現象が発生してはいないでしょうか?

しかし、どんな小説も「最初は必ず0ポイントから始まる」のです。

投稿小説には、評価やブックマーク(お気に入り)の付きやすい「タイミング」があります。

いわゆる「ブースト」と呼ばれる期間がソレです。

スタートダッシュをミスして、その貴重なブースト期間を逃せば(そこで上手くポイントやブクマを稼げなければ)、ポイントや各種数値は途端に伸びづらくなります。

しかし「序盤はそれほどではなくても、中盤からがスゴい」「結末がとんでもない」小説は、普通にありますよね?

しかし、ポイントが伸び悩んでいるために「読んですらもらえない小説」は、テコ入れで「とんでもなく面白い小説に化けた」としても、誰にも気づいてもらえません。

そもそも、他人の「見る目」とは、そんなにアテになるものでしょうか?

世界中にファンを持つ「赤毛のアン(※)」は、編集者には箸にもかけてもらえず、その会社の「女性タイプライター」の目に留まったことで、日の目を見ることになりました。

(※「赤毛の…」というタイトルを使って良いものかどうかについては、議論があるかと思いますが、ここでは知名度を優先させて古くからのタイトルを使わせていただいています。原題は「Anne of Green Gables」。)

シリーズ全作が映画化された「ハリー・ポッター」も、最初は12社に原稿を送ったものの「長過ぎる」という理由で採用されず、その後に送った1社の編集者の「8歳の娘」に見出されて、やっと出版に漕ぎつけたというエピソードがあります。

プロの編集者ですら「そんな有様」だというのに…一体どれだけの人間が、名作を見抜く目を持っているでしょうか?

(しかも、スタート直後の序盤も序盤で…。)

自分は学生時代、日々の読書だけで国語の偏差値を上げてきた人間ですが(そして大学受験も、ほぼそれだけで乗り切ってきたのですが)、それでも小説を「見る目」に自信などありません。

過去記事や、今のこの記事にも書いている通り、人間であれば必ず何かしらのバイアスが混ざり込むことを知っているからです。

そもそも自分が読みたいのは「他人にとって面白い小説」ではなく「自分にとって面白い小説」なので、他人の評価は「参考」でしかないのです。

しかし、全ての読者がそう思っているわけではないでしょう。

ポイントや人気で「読む・読まない」が決められてしまうようになれば、ポイント戦略に必死になる作者も増えることでしょう。

しかし、そこには小説のクオリティー低下を招くリスクが潜んではいないでしょうか?

本来なら小説「執筆」のためだけに100%注ぎ込めた力を、「ポイント戦略」のために何割も失ってしまう…

あるいは、小手先のポイント稼ぎのために「読者にとって読みづらいページ構成、ストレスの溜まる連載方法」になってしまう…

あるいは「作者の執筆ペースに合わない無理な連載ペース」になって、ストーリーの質が落ちたり、連載が続けられなくなってしまう…

あるいは、ポイントが伸びない小説はすぐに切り捨てられ、たとえファンが付いていたとしても、未完のまま放置されてしまう…

そんなことが起こらないでしょうか?

それは、作者・読者双方にとって不幸なことなのではないでしょうか?

投稿小説サイトの「クオリティー」は、優秀な作者さえ集めれば保てるというものではありません。

実はそれ以上に「先入観や思い込みに左右されずに小説を見出せる」読者が集まらなければ、保てないものなのです。

小説を「中身」ではなく「数字」や「人気」で選ぶ読者ばかりになれば、「内容」よりも「戦略」で全てが決まるようになってしまいます。

内容をどれだけ上手く書けたとしても、戦略が下手な作者は報われない――そんな世界になってしまいます。

果たして、それで良いのでしょうか?

それでは「小説」自体ではなく、「小説の売り込み方」を評価していることになるのではないでしょうか?

それだと「物書き」ではなく、「小説のセールスマン」あるいは「スポークスマン」「戦略家」を求めていることになるのではないでしょうか?

…もしかしたら実は「その通り」で、今の時代は「より多くの小説を“売る”能力を持つ人」こそが求められているのかも分かりませんが…そして、そうだったらイヤだなぁ、小説界に絶望しか感じられなくなってしまうなぁ…と個人的に不安を覚えているのですが…。

ちなみに、以上の件への「対策」としては、既に「小説の見つけ方・見つけられ方」で「小説の“探し方”を通して読者の意識改革を…」ということでフワッと取り組みを始めています。

…「小説の見つけ方・探し方」に興味がある方が少ないのか、記事自体の読者数が少なくて、現状あまり効果が出ていない気はするのですが…。




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