敵対する価値観

 「何が嫌いか」というより「何が好きか」という言い方をした方が基本的には好まれる。

 だが私は、嫌いなものがない人、厭うべきものがない人、避けるべきものがない人は、下品で野蛮な人だと思う。
 当然のことながら、ネガティブな感情を抱かない人間というのは、当然他者のポジティブな感情を、自分のポジティブな感情のために利用したり、破壊したり、そういうことに躊躇しない人間だ。

 繊細な感覚のある人間は、この世界に存在する「好き」の数だけ、それを損なってしまうものがあることを知っている。
 ひとりで楽器を弾いて楽しんでいる時に、周りが祭りをし始めたらどうだろうか。酒を飲みながら、下品な歌を歌い始めたとしたらどうだろうか。
 「好き」と「嫌い」というのは、同一の対象に対して対立するものではない。
 「音楽が好きな人」と「音楽が嫌いな人」がいるわけではなく「音楽が好きで、それを守りたい人」と「音楽に興味がないから、自分の楽しみのためにそれを損なってもいいと思っている人」がいるのである。

 人間は愚かな生き物で、そういう自分の「好き」を壊しかねない人間が好むような趣味に対して、偏見を持つ生き物だ。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、というわけだ。


 そういうわけで、人の持つ「価値観」というのもまた「何に価値を見出すか」ということであると同時に「どういうものの価値を剥奪したいか」ということでもある。
 すでに多数の人間が価値があると認めているものが、堂々とそこにあるというだけで自分の楽しみが損なわれてしまうことが多い場合、私たちは私たちの「好き」を守るために、すでにそこにある誰かの「好き」を押しのけようとする。
 うまく住み分けができている場合はともかくとして、基本的に価値というのは、平和的であってもその中に静かな争いがある。


 賢い人間の趣味にはある共通点があり、愚かな人間の趣味にもある共通点がある。

 子供が好むものごとに世界的な共通点があるように、幼稚な大人たちにも共通点がちゃんとあるのだ。
 私は幼稚な大人の趣味が大嫌いだ。そういうものが滅びるためには、新しい世代が賢くなくてはならない。
 価値を殺す最善の方法は、人を殺すことなどではなく、逆に人を殺させることなどだ。たとえば、この社会のシステムに適合できずに死んだ人間を愛していた人などは、この社会のシステムの価値を積極的に認めることができなくなる。
 価値を殺すのは危険性と反感であり、この時代、たくさんの価値が失われ、その結果として、何の価値も語られない時代になった。
 

 価値というのは個人的なものではなく、本来社会的、相互的なものであったにもかかわらず、それが解体されていった結果、個人のところまで戻ってやり直しになっているのだ。

 本来、一個人の中での価値など他の一個人にとっては何の意味もなかった。周りの人間が「これに価値がある」と言ったものの方が、実際の役に立つからだ。
 だが、それが役に立たなくなりつつあるから、私たちは「何に価値をおけばいいか」が分からなくて、他者に助けを求める。だが誰に助けを求めても「価値」の話をしてくれる人はどこにもいない。どこからでも反論が飛んでくるからだ。
 「これには価値がある」と誰かが言った瞬間に、その価値のせいで楽しみが奪われた誰かの「反価値観」に触れ、破壊される。
 だからこの時代の価値が、個人のサイズにまで縮小してしまったのだ。

 もはやこの国に対して、このように問いかけることはナンセンスだ。
「この国の人は何に価値を置いていますか?」

 あまりにもそれぞれが別のものに価値を置いているから、価値とは個人のものであると考えるしかなくなってしまっている。


 私はそれを問題だとは思っていない。日本は今やっとそうなっているが、アメリカやヨーロッパではずいぶん昔からそういうことが起こっている。
 そもそもそういう「共通の価値」の単位は、本来民族や集落であり、国家ではないのだ。民族が違えば、価値の見方は変わる。気候が違えば、価値の見方が変わる。当然だ。
 そして今破壊されているのは、それだ。
(国家というのはそもそも、そういう人々のディテイルを排除してひとつにまとめたものであり、それはどうしても「帝国的」である。多くの民族、多くの集落、多くの文化を、ひとつにまとめあげて、支配しているものなのである)
 ともあれ、この時代は人間の個人化の度合いが進んでいるのである。そして個人化の度合いを進めているのは、人間の利己主義だ。

 人は満たすのが簡単な欲望を満たしてなお、まだ満たされない思いをする生き物であり、それを満たしている人間を羨む。
 人はどうしても、王様やお姫様になって、他の人間を自分のために使いたいと思うことのある生き物なのである。しかし実際に、自分が王様になることはできない。ならばどうすればいい? たくさんの、色々な種類の人がいれば、それだけたくさんの王様が必要になるのではないか? それだけ多くの、人を統率できる席ができるのではないか?

 そして自分もそれにふさわしい、他の人間とは異なる、特別な人間になるしかないのではないか?

 そういうわけで、発達した社会、つまり簡単に欲望が満たされるような社会では、より多くの種の人間が育ち、それぞれの道を歩いていくのである。それが人間の「個人化」の、もっとも分かりやすい原因のひとつである。


 さてそのような個人化された社会においては、誰もが自分の権利を主張し、それが損なわれることを恐れている。だから、お互いの力をある点まで引き下げ、そこで我慢するようになっている。


 経済活動の先にあるのは全体の利益ではなく、少数の利益独占者同士の緩い争いと結託である。
 富、金とは力である。

 個人的な人間が増えると金の力がなくなるかというと、そういうわけではない。個人も金を必要とする。何のために? その力で、他の人間を動かすために、だ。
 金があれば何でもやる人間が全体の数パーセントいるだけで、金の価値を維持するのに十分だ。もし1パーセントの人間が、多少の金で法律に反しない限りなんでもやってくれるなら、全世界にはそういう人間が七千万人いることになる。そういう人間を動かして、自らの信ずるべき活動や計画を行うことができるなら、やはり金には価値があるということになる。

 金という道具は、生活の豊かさを意味しているのではなく、生活の豊かさを追いかける人たちをこき使うためのリソースとして存在している。
 少なくとも、最低限の収入をすでに確保できている人間にとっては、そうである。
 彼らには常に「何のために」が存在する。「それに意味はあるか」「それに価値はあるか」という判断がある。

 生活のために金を借りる人間は、貧乏になる。だが、人に命令するために金を借りる人間は、金持ちになる。

 借りた金で人を雇い、そいつにもっと多くの金を稼がせ、その人間が生活するのに必要な分(あるいは彼が労働に対する対価として要求する分)を超える分を、自らの利益とする。
 そういう言い方をすると、奇妙に聞こえるかもしれないが、しかし実際の経済活動とは、そういうものなのだ。

 金は価値ではなく、価値を決定する道具だ。価値あるものの所には金が集まるので、とりあえず金を集めれば、それだけで、価値あるものが生まれてしまう。その価値が維持されるかどうかというところに、やっと金以外のものの影響が出てくる。

 しなしながら最終的に価値を定めるのは、金ではなく、趣味である。愛情、愛着、楽しさ、喜びである。

 私たちは私たちを気持ち良くしてくれるもののことを好きになる。自分の気持ちよさを害するもののことを嫌いになる。

 だから私たちが他人の趣味を嫌いになるとき、その原因になっているのはその悪趣味の度合いではなく、距離なのだ。臭いものが近づくと私たちは不快になり嫌いになるが、その臭いものが遠く離れた場所にあり、それが誰かに愛されていたとしたら、私たちはそれに不快を感じないし、そのことについて興味深い気持ちで論じることもできる。

 何が言いたいか。私が今語ったようなことは、今まで私にとって不快でしかないような事実だった。
 でももはや、そういう世界で生きるのをやめたから、それを語ることが不快でなくなったのだ。

 悪臭と喧騒が届かなくなった。

 私の「嫌い」が、やっと実を結んだのだ。嫌いすぎて、やっと私の心が、彼らから離れてくれた。
 うんざりして、もうどうでもよくなったから、私は自由になって、遠くから彼らを眺めることができるようになった。

 遠くから眺めていれば、彼らの醜さも、美しさも、私とは関係のないものとして褒めたり貶したりできる。少なくとも、私の感情が「今すぐここから逃げ出したい!」と思わないでいられる。
 つまり、私の利己心がはたらかなくてよくなったのだ。
 利己心というのは結局のところ欲望であると同時に防衛本能であるから、危険なもののそばにあるときほど強くはたらく。そして自分自身の意思や趣味を抑圧する。
 そう。利己心とは、趣味と対立するものなのだ。楽しみや喜びと、対立するものなのだ。

 利己心とは「楽しみたい」「喜びたい」という衝動ではなく「楽しんだり喜んだりしている自分」を守る意識なのだ。もっと利益を得たい。もっと楽しむ権利と時間を得たい。そういう、一種の狭くて息苦しくて退屈な欲望こそが「利己心」の正体だったのだ。

 利己心の原因は貧しさと危険にある。貧しい人間と、危険を感じている人間は、例外なく利己的になる。
 どのような人間も、貧しい環境にあったり、危険にさらされたりしていると、例外なく利己的になってしまう。
 だから、私たちは、貧しさを避け、危険を遠ざけることが必要なのだ。その先にやっと、利己心ではない、清潔な欲望が芽生えてくる。この欲望は、私の肉体の安全ではなく、私の精神の衝動、つまり趣味に根差した欲望だ。

 つまりそれが、私の「価値」なのだ。私はそれに名前をつけるつもりはないし、他と共有するつもりもない。そんなことをしたら、たちまち私の喜びは不安という泥で汚れてしまう。
 私のような臆病で弱い人間にとって、他者とは常に恐怖の対象であるから、どうしても距離の壁が必要なのだ。

 この社会は汚いが、私という人間は綺麗だ。私はやっと自分のことが分かってきた。

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