明るく賢く健康的に

 明るく賢く健康的に。

 そうでありなさいと言われて育った。官僚の父、売れない画家の母(主な収入源は名画の複製。プロの画家が書いた有名な作品のレプリカを飾りたい、という人は少なくないらしい)を両親に持った私は、できる限り快活に、誰に対しても分け隔てなく、明るく賢く健康的に生きようと心掛けてきた。

 暗くなるような事柄とは離れて生きてきた。事故で死んだ友達のことも、一通りみんなと同じように泣いたりして悲しんだ後は、けろっとして自分の生活に戻れたし、クラスでイジメとかがあっても、できる限りそれがイジメじゃないものだと自分に思い込ませようとした。そういうことがある現実の中では、明るく賢く健康的に生きられる気がしなかったのだ。
 道徳的な性格になって、先生と協力してそういうのをやめさせようとしたとしても、きっとそれはどこか病的な暗さのようなものを教室にばらまくことになるし、そもそも私は……私とは関係ないことに、首を突っ込みたくなかった。私は自分が明るく賢く健康的な人間でいるのにせいいっぱいで、少しでもそこから逸れるようなことを自ら行動に起こしたくはなかった。
 結果の分からない挑戦はしたくなかった。勉強は、やればやった分だけ確実に結果が出るから、心配せずに努力できたし、というか、心配しなくて済むくらいたくさん勉強したから、それについて心配になって病的になったり暗くなったりすることはなかった。

 友達も多いに越したことはないから、どんな人とも好意的に付き合うよう心掛けた。誰に対しても親切にして、あまり自分自身が人からどう思われるか気にし過ぎず、明るく笑顔を心掛けて生活していたら、誰からも嫌われずに済む。僻まれることはあっても、気が付かないふりをしておけば、そのうち収まるし、人間関係によって私が暗くなったり病的になったりすることはなかった。

 明るく賢く健康的に。
 なぜそうでなくてはならないのか、ということは今までたくさん考えてきた。
 人は幸せを追求する生き物で、誰もが己に問うたことであろう「幸せとは何か」という疑問に対する答えが、私にとってはその「明るく賢く健康的に」なのだ。人は幸せになるために生きている、と言う人は多い。だから私は生きているかぎり、明るく賢く健康的であるように努めなくてはいけない、というわけだ。
 それだけでなく、他の人のためにも、自分は明るく賢く健康的でなくてはならない。暗い人間は周りを暗くするし、愚かな人は周りに迷惑をかける。病気の人は、何をするか分からないし、そこにいるだけで人を不快にさせることも珍しくない。
 だから人は、私は、明るく賢く健康的でなくてはならないのだ。


「よくそんな環境で、そんな生活をしていて、明るく賢く健康的でいられるな。お前は本当のところ、そう演じているだけで、その皮膚の裏では、たくさんの病気と暗さと愚かさが蔓延っているのではないか? お前はただ、表面ばかり取り繕っているのではないか?」
 高校一年の秋、机の中にそう書かれた紙が入っていた。私はそれをすぐにゴミ箱に突っ込んだ。色々な疑問が頭に浮かんだ。なぜ私が明るく賢く健康的でなくてはならないと考えていることを知ってるのか。そもそも誰がこんなことをしたのか。こんなことをして何の得があるのか。
 全ての疑問を頭の中から消し去ろうと試みても、うまくはいかない。こういう時は、別のことで頭をいっぱいにするのがいい。考えないように、考えないように。やらなくちゃいけないことをやるのだ。予習、復習。本を読むのも悪くない。友達と喋ってもいい。動画を見てもいい。ゲームをするのでもいい。

「私はお前を破滅させたい。お前みたいな、生きているだけで他者を息苦しくさせるような人間を、どん底まで突き落としてしまいたい」

「どうして見ない? どうして考えない? どうして苦しまない? お前はいつも怯えている。怯えている自分を正当化している。結局お前は、誰かの言うことに従っているだけだ……」

「お前の生き方はどこまでも薄っぺらだ」

「お前が死んだらみんな悲しむだろう。一週間程度は」

「お前が誰かに愛される時、それはお前が愛されているのではなく、お前の明るさや賢さや健全さが愛されているのだ。それがなくなったとき、果たしてお前を愛してくれる人間はいるだろうか?」

 毎回、できるだけ無感情を努めて捨てるようにした。内容を読まずに捨てたこともあった。友達は誰も、私にされている嫌がらせに気づかなかったというか、そもそも興味がなさそうだった。実際、私はいつも通り明るく賢く健康的だったから、誰も私のそれ以外の部分には興味がないのだ。
 そう。明るく賢く健康的であるということは、それだけで人の気分をよくする。だから、明るく賢く健康的な、人の気分をよくすることのできる人間の裏側や、本音など、誰も知りたがらないのだ。自分の気分を害されたがる人間なんてひとりもいない。

「私はお前が誰かのために自分を犠牲にしているのが我慢ならないのだ」

 だんだん、これを書いていちいち私の机の中にしまう人の性格が分かってきたような気がした。何もかもがあべこべな、普通じゃない人。私とは真逆の人。暗くて、愚かで、不健康な人。しかもその暗さや愚かさや不健康さに、執着してる。そうじゃなきゃいけないと思っている。そういう人が、私に敵意を持って、こういうことを書いているんだと思った。

「私はお前の中の、本当に健康的な部分を掘り起こしてやりたい。お前のその、張り付いたような笑みの裏の、本当の笑いと、涙と、怒りを、呼び起こしてみたい」

「認めたくはないが、お前は私の知る中で最も出来のいい人間だ。だからこそお前には、破滅してもらわないといけない」

「お前がこのまま退屈な人生を歩んでいくところなど、私は見たくないし、想像すらしたくない」

「そろそろ私に興味を持ってくれたっていいだろう?」

 その手紙の口調や内容に慣れて、楽しみ始めていたころだった。
 この人はそれほど性格の悪い人ではないような気がしたし、それだけ私のことを見てくれているということは、少なからず好意に近い感情を抱いているのかもしれない、と思った。
 もしかすると私は、この人を自分と同じように、明るく賢く健康的にできるかもしれない。もしそれができるなら、きっとそうした方がいい。だって、人は明るく賢く健康的でなくてはならないから。

 だから私は、放課後帰ったふりをして教室に入っていく人をチェックした。完全下校時間のチャイムが鳴ると同時に私は教室に戻り、紙があるのを確認する。つまり、その間出入りした九人の中の誰かが、その紙を入れたのだ。女子五人、男子四人。私と友達なのは女子三人で、他の人全員とも一応話したことはある。
 ひとりひとり、想像してみたが、そういうことをするような人には思えなかった。男子のことはよく知らないけれど……
 でも一人称は「私」だったし、こういう陰湿なことをするのはきっと女だと思う。友達のうちのひとりがやったのか、それともあまり接点のない子がやったのか。
 これを何回か繰り返せば、きっと絞れてくるはずだ。



「ねぇ宮田さん」
 私は、犯人がひとりきりで教室に入ったタイミングで、できるだけ音を立てないようにして、彼女の後ろから声をかけた。
「あぁ。やっとなんだね」
 宮田さんは、振り向いて、楽し気に笑った。
「どうしてこんなことを?」
 私も、笑顔のまま。なんだか刑事ドラマで犯人を追い詰めるようなシーンだったし、あまり緊迫感はなかったけれど、ドラマ特有のあの演技染みた軽さ、みたいなのはあるような気がした。少なからず楽しさを感じていた。
「我慢できなかったんだよ」
 宮田さんは、高校に入ってからできた一番仲のいい友達だった。明るくて賢くて健康的な、私とよく似た女子だった。確かに、私は彼女にだけ、明るくて賢くて健康的であることが大事だって、言った覚えがあった。
「何が?」
「あなたを見てると、自分自身を見てるみたいで、不快だったんだよ」
「でも、楽しかったんじゃない?」
「そりゃ、不快なことを不快だって言うのは楽しいことだよ。愚痴とおんなじだもん。それに、あなたは傷つかないから、こういうことをしても誰も損はしない。私の感情だけが満たされる。もしあなたが、本当の意味で明るくて賢くて健康的なら、ね。でも実際はそうじゃなかった。だから、結局私を見つけて……」
「違うよ。私はただ、明るく賢く健康的に、宮田さんの遊びに付き合っただけだよ。実際楽しかったし、今も楽しんでる。今の私、明るくて賢くて健康的でしょ?」
 宮田さんは、鼻で笑った。
「本気でそう思ってるから、気分が悪いんだよ。私にはそれが、たんなる演技にしか見えないよ。実際貴方の心臓は、今も強くあなたの胸を叩いているだろうに」
「でもそれは私にしか分からないことだから」
「じゃあなんで私にはそれが分かるの? どうして私は、あなたのその気持ち悪い明るく賢く健康的な演技に気づいてしまうの? 私だって、気づかないままでいられたら、それが一番よかったよ。こんなに不快になって、こんな嫌がらせをする必要はなかった! でも気づいてしまった。気づいてしまったからには……」
「宮田さんがさっき言った通りでしょ。似てるから、なんでしょ。でも結局それは、他の人には分からないことだし、私たちはどうせ明るく賢く健康的に生きていくんだ。こんなことがあっても、宮田さんは結局明日になったら私と同じように皆と明るく賢く健康的に過ごすんだ。私たちはよく似ているから」
「似てるなんて言ってないよ、私は。ただ、自分を見てるようだと思っただけ。でも実際には違う。私とあなたは、根本的に違う人間だよ。違う人間でなくてはならない。私は確かに、皆の前では明るく賢く健康的な人間を演じているし、演じなくてはならない。でも私がひとりきりの時は、そうじゃない。ひとりきりの時は、また別の意味の……私だけの健康がある。暗くて愚かだけど、私は暗くて愚かな中でこそ、健康でいられる自分を知っている。その点で、あなたとは違う」
「それで、私にも宮田さんと同じであってほしかったんだ」
「きっとそうだと思う。あなたが、本当の意味で明るく賢く健康的であろうとするから。つまり……暗さや愚かさを押し殺して、完全に自分を単純な存在に仕上げてしまおうとするから。私は、それに耐えられなかった。だから、あなたを揺さぶった」
「揺さぶれた?」
「その様子を見るに……いや、まだ分からないかな」
「私は楽しかったよ。宮田さんは人に危害を加えられる人間ではないから、最初は怖かったけど、だんだん楽しくなってきたんだ」
「あぁ、その言葉に嬉しくなってしまう自分にうんざりしているんだ、私は」
「ねぇ宮田さん。私たち、いい友達だよね」
「かもしれないね」

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