絶え間ないストレスと麻薬的な快楽 幸福は前提に過ぎない

 最近思いついたことだが、肉体的な快楽というのはあくまで体に加えられた過度な負荷に対する反応なのかもしれない。
 つまり性的な快楽はもちろんのこと、それ以外の気持ちよさ、入浴、睡眠、食事、あらゆる単純な快楽をより強く味わえるタイミングはいつかといえば「酷い目にあった後」なのだ。

 それはまるで、人生の埋め合わせかのように、強くおぞましいほどの快楽が無条件的に与えられる。襲撃されるかのように、巨大な快楽が頭を支配するのだ。

 恥じらいを捨てて正直に書くことにする。
 私がもっとも苦しんでいた時期、つまり高校受験のシーズン、世の中のことで悩みつつ、親しい人が自殺し、それでなお私は「一番でなくてはならない」と自分自身にプレッシャーをかけ続けていた時期のことだ。
 すべての行動が私を気持ちよくさせた。自慰行為はもちろん、睡眠、食事、入浴、全てが至福だった。この時間がずっと続けばいいと思うほどの、強い多幸感であった。
 やらなければならないこと、この時間が有限であること、そういうことを考えれば考えるほど、その休息の時間がかけがえのないものだと思えたし、体中が喜びに震えているのが分かった。
 と同時に、全てを忘れて生きるのをやめたいという死への渇望、生への絶望は深く強くなっていった。

 全ての行動に対して「何のために」が欠けていた。
 無理やり答えを出すならば「気持ちよくなるために」であった。

 あの時私が男を求めなかった理由は、単にめんどくさかっただけだ。もし手っ取り早く、安全かつ不愉快なく、性の喜びに浸れるような相手がいたならば、当然私は破滅的な関係を持たずにはいられなかったと思う。
 逆に言えば、あの時そういう人が私の目の前に現れなくて、本当によかったと思う。もしそんな人がいたら、私の人生はもうすでに取り返しのつかないことになっていたはずだ。
 全てが台無しになって、私自身は私自身を呪い続けたまま人生を続けることになっていただろう。

 ありとあらゆるこの世の快楽。
 私はもう、そういうものに興味が持てない。麻薬的な気持ちよさは、自己嫌悪と罪悪感しか後に残さない。
 気持ちがいいのはその瞬間だけ。そして……勉強をするのも、結局はその「気持ちよさ」のためだったのだと気づいた。

 女とセックスするためだけに生きているような男の気持ちがよく分からない。あの連中がなぜ空しくならないのか分からないし、なぜ平気な顔をして生きていけるのか分からない。
 女も同じだ。子供を産み育てるということに関して真剣になっている人の気持ちは分かるし、何か熱中するものがあってそれに命を懸けている人の気持ちも分かる。
 でもその場しのぎのように生きていて、それなのに「私は健康だ」と思えている人の気持ちが私には分からない。

 セックスははっきりいって人生の目的にはならない。セックスどころか、あらゆる快楽は人生のおまけ、目的をもって何かを成し遂げるための手段であり、エネルギーの回復法に過ぎない。

 何のために。金も豊かさも、本質的にさらなる金と豊かさしか生まない。
 それが前提であるのは確かだが、もうこの時代はすでにその前提を満たしている。
 何度も言わなくてはならないことだが、私たち人間はこの先「生きる意味」について、真剣に考えざるを得なくなる。
 その過程で、自殺したり、人を殺したりする人が増えていくことも想像しやすい。短絡的な結論はそういう破滅的な行動をもたらすから。

 考えなくてはならない。私たちは「何を目的として生きるのか」。

 どのように生きるのか、ではない。私たちが生きた先に何があるのかということを、見据えなくてはならない。

 永遠の幸福? 極楽浄土? 本当にそんなものを望んでいるのか? 本当にそんなものが素晴らしいものに見えるのか?
 もしそうならば、そもそもあなたはスタート地点にすら立っていないのだろう。

 幸福は前提に過ぎない。その先で何をするのか。よくよく考えてみなくては。

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