イデア論批判――円という概念の習得について

 率直に考えて、完全なる円というものは物質的な世界には存在しえないが、私たちの脳の中の世界には、そういう円は「あるもの」として認識できる。
 面積を持たない線、というものを、物質的な世界に作り出すことはできないが、私たちの脳の中でそれを描き、それに似たものを絵に書くことができる。

 このような現象を物質的な事物にまで広げたものがイデア論とされているが、それについては今は触れないことにする。
 ただ私が今考えたいことは、本当に私は「完全なる円」というものを認識できているのだろうか、という話と、もしそれが認識できているなら、どのような過程を経てその「完全な円」を認識するに至ったか、という点についてである。

 たとえばプラトンはこの奇妙な問いに対して「想起」という事柄によって理解しようとした。
 私たちは「完全なる円」というものを見たことがないが、それについての定義を説明されると、それを思い描き、それがあることを承認することができる。説明さえしてもらえれば、その定義に基づく定理や法則にも。
 私たちの通常の認識は、今まで実際に見たことのないものを承認することはできない。見たことのない異国の神を説明されただけでは信じられないように、本来であれば、円の定義を説明されたところで、それはヒンドゥー教の神々はこういう風に生まれてきて、このように存在しているのだと説明された時と同じように「そういう文化がある」「そういう風に考えることもできる」程度の感覚しか生じなかったことだろう。
 だが円の説明については、私たちはそれを信じることができる。完全な円形、というものを、私たちは頭の中で思い描くことができるし、その姿に「美しい」と感じることもできる。完全なる円は、そうでない円、つまり誰かが手で書いた円や、コンピュータ上に映された円よりも、私たちの認識の目には美しく感じられる。そしてこれは、あらゆる数学の概念にも言えることであり、私たちの頭の中には、そのような不思議な認識が多数存在する。

 そういうわけでプラトンは、私たちは、生まれる前にそのような美しいイデアの世界を見たことがあるのだと想像した。確かにそれなら、理屈は通るように感じる。
 私たちが通常、自分が実際に見たり感じたりしたことしか認識し、信じることができないという一般的に信じられている法則と、私たちが説明されただけでその美しさを承認できるような不思議な認識法則を、同時に成立させるためには、私たちは生まれた瞬間か、あるいは生まれる前に、そのような美しさを実際に感じていて、それを成長過程や生まれた瞬間に忘れてしまっているからだ、と考えるのが合理的だ。そう考えればその二つの法則は互いに合致するし、理解の及ぶものになる。


 さて、私はプラトンのそういう理屈には欠陥があるのを知っているし、私の彼への好意を隠さないのであれば、おそらくプラトン自身も、その理屈には致命的な弱点があるのを気づいていたことだろうと、私は思っている。

 私はこういう風に疑うのだ。
 私たちは確かに想起している。だがその想起している対象は、イデアの世界ではなく、私たちの経験の積み重ねから抽出された単純な類似性及び、そこから導出される概念の生成によるものなのではないか、と。

 もっと分かりやすく説明しよう。私たちは生まれた瞬間には、円なるものを知らない。思い出すことすらできない。だが成長過程において、私たちは丸いものや四角いものなど、現実の中に色々な図形を見出す。そしてその中に、類似性を見出す。たとえ色や大きさが違っても、ボールはボールであり、描かれた円は多少歪んでいても、円であると認識することができる。それは、円が円であることによって円であると認識されているのではなく、円でないものと円であるものを区別しなくてはならないから、そう認識できるようになるのである。

 私たちがひもを結ぶとき、それがしっかり結ばれているか、それとも解かれているか、それを正しく認識することは必要不可欠なことである。だから、私たちはその円がしっかり閉じられているかどうか考える必要があるし、そのためには、私たちには見えていない部分について想像する必要もある。
 たとえば私たちが誰かの両腕を紐で縛るとしよう。私たちは、どのような角度から見ても、その紐の全体を同時に見ることができない。どの角度から見ても、紐の一部は腕に遮られて視覚から外れてしまう。だからそこで、私たちは見えていない部分について記憶したり、予想したり、そういう風に認識する必要に迫られる。
 紐に限った話ではないが、私たちの抽象的な認識はおそらくそのように育っていき、それがある一定の複雑さを確保すると、それを完全に定義として、それ自体の世界を生成することができるようになる。

 つまり最初は、腕の裏側にある紐がどうなっているのか、実際に見て確認するような状態から、実際に頭の中で腕を思いうかべたり、その腕に回された紐の様子を想像してみたり、そういうことができるようになってくるのだ。
 今私の賢い読者たちが、私の文章を読んでそうしているように、実際に目で見ていないものを、そこにあるかのように認識することができるようになる。それは、そうすることによって、自分たちの生活の役に立つことが多かったからだ。そのように育まれた機能を、私たちは発展させて、ついにはイデア的な世界(言い換えれば、数学的な世界)を生成できるようにまでなった。
 しかも面白いことに、このイデアの世界というのは、万人にある程度共通したものがある。人間の認識の作用の傾向の一致の結果なのか、それともこの世界が元々そのような世界と対になっていたから、私たち人間が必然的にそのように考えられるようになったのかは、分からないが。

 私の意見がプラトンと決定的に違う点をまとめると、プラトンは先にイデアを見てそのあと物質世界と知識に触れることによってそれを想起しているという仮説を立てたが、私は逆に、私たちがこの不完全でぼんやりとした意味のない物質世界で見たものを基に、イデアの世界というものを形成し、それを発展させているのだ、と考えている点にある。
 私たちが忘れているのでは「完璧完全なるイデア」ではなく「イデアの素材となった具体的で実用的な経験」ではないか、という話だ。

 実在というものが何であるにせよ、それが定義化され、想起され、私たちの頭の中で思い描かれるようになった瞬間に、それはすでにイデア化されていて、物質的な世界とはまた別の存在の仕方で存在するようになっている。

 私たちがもし神を想像することができ、それに美しく感じるならば、確かに神というものは、存在していると言える。あるいは、存在すべきだと言えることができる。
 もし私たちがそういうものを存在しないと言うならば、私たちの「自己」や「愛」なども解体されなくてはならなくなる。それだけでない。「数学」や「科学」も同様に、それは私たちの観念の世界を基に組み上げられたものである以上、もし神を想像することができているのに、そういう存在の仕方を承認できないのならば、一切の思考の中の存在の世界は承認することのできないものになってしまう。もちろん、科学は現実(物質的、あるいは経験的世界)との整合性を常に確かめ続けるという条件を持った観念世界を形成するので、他の観念世界とは一線を画するものではあるが。
 そういうわけで、明晰な思考と類まれな想像力を持ってなお、無神論を信じているような人間は『神など存在しない』ではなく『神は死んだ。私たちが神を殺してしまった』と言うのだ。言うしかないのだ。彼は確かに神という概念を知っているわけだから。
 神を殺す方法は無数に存在する。科学という棍棒を使ってもいいし、同情という単純化された同質的認識作用を使ってもいい。
 人間に同情された神は死ぬし、人間に同情した神も死ぬ。同情というのは対象の神性を奪い、それを自分と同等の場所まで引き下げるか、あるいは自ら対象の場所まで下降する作用があるからだ。
 人間に同情しない無慈悲な神への敵意が神を殺すこともある。これほど多くの悲惨なことを放っておく神など、いるはずがない、いてはならない、という意識が神を殺すのである。これにも同情という感情に原因がある。面白いことに。
 私が今やっているように、構造的にものを見ることによって神の地位を私たちの精神の生成のところまで引き下げたり、あるいは私たちの精神を神の位まで引き上げることによって、神という座、認識を破壊するのでもいい。神は私たちの中では案外簡単に殺されてしまうのだ。
 実際、イデアの世界は不滅などではなく、消失もあれば、殺害もある……神々の世界がそうであるように。当然、復活だってあるし、数えきれないほどの死と復活を繰り返すことのできるのが、このイデアの世界というわけだ。そういう意味で、イデア、つまり認識の世界は不滅だということはできるかもしれない……(円という認識、円というイデアのない世界を私たちは想像できるし、その世界で私たちは生きることができる。だが私たちが円というイデアを忘れたり、ないものとして扱ったところで、円というイデアの不滅性がどうなるかは、もはや解釈の問題ではないのか?)
 同様に、あるイデア的な概念に「不滅」や「万能」という属性を与え、それに対して私たちの認識自体に「滅するもの」「不完全なもの」という属性を与えて認識したならば、それだけで簡単に神は復活するし、科学者などが神を信じるとき、そのような曲芸をいともたやすく行う。永遠の相のもとに。
 パスカルのように「間違いだらけの不完全な精神で、どうやって神がいないことを証明できるだろうか。証明できないということは、信じるか否かの問題であるということである。そして信じることができるということは、信じるべきであるということである」という無理やりな推論を己に課すこともできる。それもまた一種の曲芸である。

 詩人の場合は事情が異なっていることが多くて、それは科学者の場合とは異なり、むしろ彼らはあまりにもイデア的な世界の中で生きており、現実的な世界が彼を引き戻さない限りはすぐに狂気的な概念の世界に溺れていくため、科学者が神を信じるときに曲芸を行うように、詩人が神を信じないとき、逆に曲芸を行う必要がある。
 詩人にとって想像こそが真実であり、論理や認識こそが曲芸なのだ。ある意味科学者と詩人というのは対になった存在であり……おそらく互いに必要とする存在である。
 もしかすると、詩人的であり、なおかつ科学者的であるということが可能な人間は……恐れずに私個人の意見を言わせてもらえれば、もっとも出来のいい人間であると同時に、もっとも危険な人間であると思う。

 もしそういう人間が、自分の見ている世界をどれだけ人に伝えようとしても、彼の世界が美しく同時に正し過ぎるがゆえに、人々に伝わることがなく、彼がそれに嫌気をさして、世界を自分の認識の力によって変化させようと試みた場合……

 かつてのように、新しい宗教や新しい神が生まれるのではなく、おそらくは、新しい機械が生まれる。それは多分、神というより悪魔に近い存在であるような気がする。

 私自身はその点では、詩人にも科学者にもなり切れない中途半端な人間だから……いや、おそらくは、哲学者とは常にそういう存在だったのだ。
 哲学者はおそらく、神を作り出そうとしたり認識しようとして失敗し、結果的に偉大なる悪魔を育てることになっている。
 神は善良なる一般庶民のためのものだが、悪魔は、その善良なる一般庶民に対して我慢ならない出来のいい人間のために存在する。
 哲学者や隠者の中には常にある種の凡庸性が備わっていた。彼らは天才と呼ばれることが多いが、実際のところ、彼らは本当の意味では天才にも凡人にもなることの出来なかった人間なのではないか。
 だから、天才でなくても理解できる事柄しか語らなかったのではないか。実際、哲学というのは平均人に対しては閉ざされているが、天才向けというにはあまりにも万人に向けて開かれている。難解だと言われているものでさえ、現代の数学の専門的な分野と比べれば、足元にも及ばないほど理解しやすいものではないのか……
 あるいは、天才ですら理解できないように書くことによって、己の……


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