見たくないものこそ見る

 見たくもないものを見てしまった時、それがずっと頭から離れないことがある。

 小学生のころ、家族旅行でスキーをしに行った時のことだ。
 レンタルショップの目立つ場所に立てかけてあったスノーボードのイラストが、忘れられない。(忘れられないと言っても、時々ふとしたタイミングで思い出して嫌な気分になるだけだが)

 右手で、左手の小指と薬指と親指をカッターか何かで切断し、それを残った人差し指と薬指に縫い合わせるという、悪趣味極まりない意味不明なイラストだった。

「なぜそんなことをしなくてはならないのか」
「痛いとは思わないのか」
「これを書いた人間はどんな気持ちでこれを書いたのか」
「こんなスノーボードを使う人間がいるとは信じがたい。だがそこに置いてあるというのが事実だ」
「そこに置いてある以上、数多あるスノーボードの中からそれを好んで選んだ人間がいるということだろう」
「子供がたくさんいるような場所なのに、そんなグロテスクなものを置いておくのは公序良俗に反するのではないか」
「どうしてあんなに悪趣味で恐ろしいものが置いてあるのに、皆平気な顔していられるのか」
「気持ち悪すぎて、そのことを話題にすることすらできない」
「こういう不意に気持ちの悪いものを見せられた時、人はすぐに忘れてしまうものなのだろうか? 私は忘れられないのに」
「こんなことを考えても仕方がないのは分かっているが、かといって忘れたいとも思えない。確かにあれが私の心を揺さぶったというのは事実なのだから」

……そんなことを、何度繰り返し考え続けたことだろう。

 もし普段から傷つきなれていない人間なら、それに被害者意識を持ったって不思議じゃない。
 私でさえ「精神の健康を害された!」と主張したくなることもある。でも別に、それは言っても仕方がないことだし、言ったところで忘れられるわけでもない。


 あれにどんなメッセージ性があったのかもわからないし、多分分かったとしても到底受け入れられないと思う。もし見つけられるなら、ちゃんと見つけてもっと考えを深めたいと思うけれど、ネットでどれだけ調べても出てこなかった。
 私の記憶の中にしかないということが一番の不愉快だし、これ以上情報の開示ができないというのも腹立たしい。

 ずっと未解決なのだ。あのイラストに関しては。


 もともと切断というものに特別な恐怖心を抱くタイプだった。子供向けのアニメなどで、腕や首が飛ぶシーンは、今でもぞっとする。ふらっと、意識が飛びそうになる。
 もちろん深呼吸して、別に腕が飛んだって応急処置をすれば死にはしないし、頭が飛んでも死ぬだけだ。死ぬのは怖くないし、別に体が離れ離れになたって、何かが決定的に損なわれるわけじゃない。分かってる。分かってる……
 でもやっぱり怖いものは怖い。高所恐怖症と似たようなものでもある。展望台の透明なガラスの上に立つ、落ちないのは分かってる。でも足の震えは止まらない。そういうものなのだ。

 私は自分の恐怖心を克服するのが好きだ。だから、切断系のエロ画像を検索して耐性をつけようとしていた時期もあったし、実際それなりについた。
 おかげであのイラストの話も、このように冷静に文章にすることができるようになった。数年前までは、思い出すだけで頭痛とめまいがしていたが、今やもう小さな不愉快程度で済んでいる。

 これが精神の成熟ということなのか、それとも……鈍感になったということなのか。


 ともあれ時々考えるのだが、数百年前、まだ工業的資本主義が日本に来る前の時代においては、そのようなおぞましいものに触れることはあまりなかったのではないかと思う。
 ただ小さな村の中で、畑を耕して、おしゃべりと遊びと手仕事をするだけの日々。時々都会に出ると飢えて死んでいる人がいるが、その程度。
 多くのおぞましいものを知らないまま生きて、死んでいくことが出来たのではないかと思う。

 死体に群がる蛆虫。昔はあんなに恐ろしかった、目をぎゅっとつぶって見た光景を必死で忘れようとしていたのに、今やその数を数えたり、それが何という種なのか特徴を掴んで検索することさえできる。

 私は強くなったのだろうか……あぁまぁでも、そうだろう。
 私は自殺未遂をしたあの日から、決定的に何かが変わった。怖いものがなくなったし、全てを見るという覚悟を持った。
 知っても、死ぬわけじゃない。もっといえば、死んだって別に構わない。

 知るというのは、見るというのは、思い出すというのは、本来それだけでとても恐ろしい事なのだと今でも覚えてる。

 時々思うのだ。私はきっと、人が見たくないものを見せつけている。
 それが「醜い」からではなく「恐ろしい」から、見たくないと思わせてしまうものを。

 でも、こっちの方が美しい。醜いものから目を背けて生きていると、美しいものの美しさすら見逃してしまう。
 全部見る。全部感じる。全部受け止めて、全部消化する。私はそうあるべきだと思ってる。それにまだはっきりとは言えないけれど……いつか「他の人もそうであるべきだ」と強く主張したいと思っている。そこに私の意志があるような気がしている。

 どんな痛みも苦しみも、悪趣味や愚かしささえ、ちゃんと認識する。認識したうえで、選別する。
 何が好きで、何が嫌いか。

 どれだけ考えてもどれだけ分析しても理解できないものはある。でも認識はやめない。記憶からも締め出さない。
 それが確かに私の受け取ったものである以上、私はそれを捨てるつもりはないのだ。

 痛くて苦しいけれど、それこそが今、私に生きているという実感を与えてくれている。

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