弱いから群れる 強いから群れない なんてことはない
群れる人たちは基本的に臆病である、というのは間違ってはいないと思う。
剣や魔法のファンタジーや、謎物理法則の不良漫画の世界で生きているならともかくとして、私たちの生きている現実は、どうあがいても「数が全て」だ。
銃や凶器を持っているならともかくとして、現代日本ではそういうものを「持っている」というだけで犯罪になるから、そういう意味では、私たちの生きている現代社会は、直感、感覚的には「原始的な、人間の数がそのまま力になる社会」なのだ。
ボクシングのチャンピオンだろうと、怒り狂った同じくらいの体格の人間十人ほどに囲まれたら、ひとたまりもない。漫画の世界のように、ひとりやっつけたら残りは怖がって逃げていく、なんてことは実際にはない。数にものを言わせて人を襲うような輩は、味方がひとりやられたら、自分たちが相手のことを手加減せず半殺しにする正当な理由を得たとばかりに生き生きとするものだ。それくらいの道理は誰もが理解している。
原始的な環境において、残念ながら、暴力というのは数が全てだ。
さらに、言葉や意見の力という意味でも、同じことが言える。結局は、多くの支持を得ている人間が、何らかの攻撃に対してそれだけ多くの制裁の手段を持っていると言える。
群れていれば、自分ひとりが何か被害を受けたとき、集団の力で対抗できる。
逆に言えば、自分が何らかの集団に属していないと、もし何らかの集団が自分という人間に社会的圧力や、あるいは暴力を背景に脅してきた場合、私たちはそれに屈する以外に選択肢がない。
それはもはや本能的な部分にまで染みついた習性であり、理性や経験をうまく働かせないと、そのような習性、本能には反抗できない。
逆に言えば、生まれてきてから、自分がそれまで何もしていなくても家族から守られ、誰からも傷つけられず、制裁する必要や、身を守る必要を感じずに生きてきた人間は、力の必要性が理解できないことがある。
そういう人間は「強いから群れない」のではなく「幸せだから群れない」のである。警戒心のない子犬みたいなものだ。とてもかわいらしい。
さて私たちは都合のいいことに、ものすごく強大な共同体の中にいる。国家という共同体だ。
日本という国は元々そういう国家的、民族的な意識が強い共同体であったから、私たちはなんだかんだ言いつつまぁまぁ信用している。
いざという時はきっと守ってくれるはずだ、と信じているし、もしそういう信頼を覆しかねないような事件があったら、大騒ぎする。
ただ、そういう国家への信頼が完全ではないからこそ、この時代の人々は本能に頼って、小さなコミュニティを形成したがるのだろう。
本人たちがそう意図して集っているというわけではないにしろ、彼らの非言語的な本能として、おそらくは『いざという時に守ってもらえるような仲間が欲しい』という気持ちがあるのだろう。
実際、どんなにいやなヤツでも、そいつが群れるタイプの人間で、その群れの中の重要な人物がひどい目にあった場合、精神的に動揺し、しかるべき対処をしようとする。
群れる人間は「強い」とか「弱い」とか以前に、かなり動物的な人間である。
「どのように生きるか」よりも「生き残ること」を重視するタイプの人間である。
言い換えれば「生き残るためなら手段は選ばない」人間である。こういう人々は、自分に余裕があるときは危険なことはしないし、他者にも刺激を与えないよう注意を払う。あるいは、反撃してこない対象を選んで弄ぶ。
生き残りたいという欲望が強い人間ほど、基本的に近視眼的で、他者に対して自分と同等の権利を認めるという感覚の優先度が低い。いざとなれば見捨てるのが当たり前、というわけである。
ただこういう人間も、生き残るのに他者との協力が必要であったり、あるいは、すでにリスクしかない状況においては、積極的に危険な道を進もうとする。
彼らに高い知性がある場合は、富や権力を手に入れることによって、自らの安全性を高めようとするが、そうでない者の場合は、自分自身の「今置かれている環境」以外が見えないため、その中でもっとも生存しやすい方向に自動的に誘導される。
群れる人間というのはいつの時代においても大多数であり、生き残りたいという強い欲望を抱えているにもかかわらず、大量に死んでいくことが歴史上多かったのには、そういう理由がある。
同じ本能を持つより賢い人間が、自分が生き残るために同種の人間を間引きする必要がある場合、そっちの方向に誘導するのが容易なのである。
戦争が起こる前に、先を見越して戦争に行かなくていい職業を選んだ人々がいる。けっこうな割合で、そういう人がいる。
たまたま戦争で生き残った人もいるけれど、日本の戦後を支えたのは、そういう、ある見方においては「ずるい人々」であった。周りに流されず、自分の理性と利己心の間で調和をとれるそういう人間たちが、必然的に戦争を生き延び、新しい社会を作った。
ならば、そういう人間にとって生きやすい社会ができていくのは当然であったのだが……とはいえ、国というのはその国の中だけで引きこもって国作りしていくものではなく、支配にしろ搾取にしろ協調にしろ、他国との関係性もまたひとつの重要な問題になってくる。
地域や文化、お国柄によっては異なるが、基本的にどの国においても、より多くの富と権力、安全と安定を手に入れている人々の種類は似通っている。
ほどよく利己的であり、ほどよく理性的なのである。深く考えることはあまり多くないが、他の人間に簡単に操られるほど能無しではない。
他に対して自分にある優位な点、つまり「知性」を持っていることを自覚しており、金も人気も家柄も、それをしかるべき方法で用いることこそが、自らとその親族に安定と繁栄をもたらすことを理解している。
彼らは「群れる人々」ではなく「支配する人々」である。群れる人々は「ひとりきりだと、集団からの攻撃に耐えられないから」という理由で群れるが、支配する人々は「より強い集団であれば、より弱い集団に対して優位に立つことができ、もっとも安全である者とは、その強い集団を支配し、利用している者である」という理由で、その群れの上位に君臨するのである。
ここでいう「支配する人」というのは、すなわち「強い人」というわけではない。腕力は人並である。ただ、知性と精神の独立性という点で、他に対して大きな力を単独で持っているので「知は力なり」という意味においては、「力あるもの」「強い者」と言うことができそうだ。
群れる人間、弱い人間は、水平か、あるいは水平に近いコミュニティを望み、支配する人間、強い人間は、自分が優位に立てるコミュニティを望む。
弱い人間には残念な事実かもしれないが、この二つのコミュニティのうち、より強いのは、支配構造を正当化するコミュニティである。
水平なコミュニティは、支配構造を持つコミュニティに目をつけられた瞬間に、搾取される。それに対抗するためには、自らも支配構造を持つ必要に迫られる。なぜそうなるのか? 自分の頭で考えてくれ。
三人寄らば文殊の知恵というのは大嘘で、三人いると、その中で一番頭がいい人間が出した意見が、さも三人で出した意見のように扱われ、その意見を出した者以外の二人が「やっぱり三人集まると、ひとりで考えた時よりいい意見が出せるな」と勘違いするだけである。(ただし、ひとりひとりが他者を支配できるほど優れた知性を持つ場合は、異なる。その場合は、ひとりひとりの思考の欠点が補われるので、より正確かつ深い、複雑な解を導き出すことが可能になる)
そういうわけで本来、弱い人間が生き残るのにもっとも合理的な選択は「よりよく支配されること」である。そういうことを分かっている人間はいつの時代にも一定数いて、この時代にもたくさんいる。支配者を尊敬し、従順でいること。他に対して常に親切で、複雑にものごとを考え過ぎないことを美徳して持っていること。
*
支配者は基本的に集団に対しては支配的であるが、個人に対しては親切である。なぜか。支配者とは常に個人であるからだ。個人は個人に対して、親切であるしかない。
個人とそうでない人間との根本的な違いは何か。利害や趣味が、共同体と一致しているか否か、だ。
国が滅べば一緒に滅びる人間は、個人ではない。個人とは、己が滅びても共同体は滅びないことを自覚し肯定する人間であり、同時に、共同体が滅びても己はまた新たな共同体の中でやっていけるという自覚がある者のことを言う。
つまり、自立した人間のことである。支配者であるためには、第一条件として、己自身を他に簡単に支配されないことが重要であり、それはすなわち自立した、一個の人間であるということなのだ。
そして悲しいことに、そのような優れた人間は、あらゆる時代においてそれほど多くないので、支配者というのは常に「自らの運命を自らの手にしっかり持っている人間」を尊重するしかない。もちろんそこには、執着や嫉妬といった複雑な感情も芽生えがちであるので、支配者がそういう人間を殺すよう命じることは歴史上珍しくはなかったが、それはそうとして、支配者は個人という存在に対して、自分が支配している有象無象よりも大きな価値を与えずにいられない生き物なのである。
日本の支配者層は控えめであり、数が多い。彼らには「群れる人間」の習性が残っていることが多々あるが、それでもやはり、支配者としての性格をちゃんと持っているので、個人に対して非常に親切であると同時に、集団に対しては非常に軽蔑的な態度である。
自分のやったことに自分自身で責任を負えない人間。自分の頭で考えて行動できない人間。あらゆる行動に理由や命令を必要とする人間のことを、支配的な人間は軽蔑するしかない。
彼らが軽蔑している「向上心がなく、生きていければそれで充分だと思っている愚かで扱いやすい大多数」の存在こそが、彼らを彼らたらしめているのに、である。
自立しており、何かを主張するときに同質の人間を必要としない人間。攻撃されたとき、制裁するための手段としての「数」を用意しない人間。そういう人間は、信頼され、尊重される。少なくともその人は個人であり、自らの知性を用いて、その気になればいくらでも他を支配する能力を持っているにもかかわらず、それを何らかの理由で行っていないことを、支配者の側は本能的に感知するのであろう。
支配者側からすれば、自らの権利や安全を脅かすことなく、己と対等に、好ましい関係を築くことのできる他者であり、時間と体力に余裕があるならば、積極的にもてなしたい相手なのだ。
(言い添えておくが、支配者は例外なく「おもてなし」が好きだ。客人に対して意地悪をすることはあっても、無礼を働くことはない)
(意地悪と無礼の区別がつかない人間は野蛮とされ、見下される。無礼とは相手の立場を損なうことであり、意地悪とは相手を不快にさせることである。支配者は、自分が不快になることよりも自分の立場が損なわれることの方を問題にするし、それに腹を立てる。大して群れる側には、その区別が存在しないので、不快になったというだけで大騒ぎする)
*
まとめよう。人間は三種類に分類される。
・群れる者
・支配する者
・ひとりでいる者
支配する者とひとりいる者は、群れる者を軽蔑しているという点で一致しており、支配する者と群れる者は、己の安全を確保し、より多くの富と権力を欲するという点で一致している。
ではひとりでいる者とはいったい何なのか。彼は集団からの攻撃が怖くないのであろうか。
*
この時代において、ひとりきりでいる者は基本的に、あるひとつの道理を理解している。それは何か。
「集団の中にいても、安全であることなどありえない」ということだ。
つまり、この時代、身を守ってもらえるだけの力を持つ集団というのは常に支配者が存在し、その支配者の精神性の傾向によって、その内部における共同体員の安全や安定が左右されるのだ。
支配者というのもまた人間である以上、死ねば交代するしかないので、今その時の支配者が優れているおかげで守られていることがあったとしても、その支配者が死ねばどうなるかは分からない。
しかも、優秀かつ狡猾な支配者がいる場合においては、共同体員はそうとは気づかないうちに心と体をすり減らされ、破滅していく。安全を手に入れるために群れているのに、むしろその群れているということが原因で、死に至るのである。
そういう経験をしてきたり、あるいは目撃したり、知っていたりする人間は、集団の中にいても、余計に多くのことに気を配り、消耗し、それでいて対価として得られるものはほとんどないということにうんざりして、ひとりでいることを選んでいるのである。
もし人間がまだ野性的であり、社会的な動物でない場合は、確かにひとりでいると危険だ。いつ暴力的な集団に囲まれて、ひどい目に遭わされるか分からない。
だが現代においては、支配者たちはひとりでいることをも、己のひとつの権利として確保したがっている。支配者たちは、己が支配者であることを忘れ、ひとりの人間として楽しむことをひとつの権利として確保したがっている。
つまり、あらゆる個人は自由であり、安全でなくてはならない。そのような実際社会を、実現していなくてはならない。それがこの時代の支配者の本音であり、ありがたいことにそれは成功している。
だから、この時代、この社会においては、実のところ安全に生活するうえで、群れる必要もなければ、支配している必要もない。
ただ無害な一個の人間として自由に生きていれば、最低限のルールとマナーを遵守していれば、何らかの集団から目をつけられひどい目に遭わされることもない。
もしそういうことがあった時、その傷つけられた無害な一個の個人が、支配者側の人間や、その親族であった場合どうなるだろうか? 言うまでもないことだろう。
そういうことの繰り返しの結果、何の支配能力もない一個の人間が、ただ一個の人間であるというだけで、最大限尊重されたまま生きていくことができるようになった。
それはたまたまこの状況がそうであるというだけだが、現状、生きていくために、力など必要ないのである。今後もずっとそういう環境が続くとは限らないが、自立しており、知性的であるならば、人はいつでも小さな共同体を支配し、その中で安全を確保することができる。
人間とはそれほどまでに、社会的な動物なのだ。それほどまでに「群れる人間」というのは、どこにでもおり、簡単に操れるものなのだ。
こんなことを言いたくはないが、それが実態に即している以上、そう言わざるを得ない。
人間もまた、一種の家畜である。そして家畜には家畜の幸せと権利があり、それはこの時代「人権」と呼ばれている。
人権には「人を支配する権利」が記されていないが、それは当然である。家畜は家畜同士平等でなくてはならない、というわけである。
それを見抜いた人間は、そうとは分からない形(人権というある種の動物愛護法に反しない形)で支配構造を作り、その中で富と権力を手に入れていく。
家畜にはないかもしれないが、個人には、人を支配する権利というものが生まれながらにして存在している。金(餌)さえ与えていれば、それを必要とする人間に命令する権利を誰もが手に入れられる。
それを行使するも、放棄するも、実際のところ自由だ。
私は放棄する方を選んだ。それは楽しくないし、不愉快だからだ。
一個の人間として生きられるなら、私はそれで十分だ。支配することも支配されることも欲しない。群れることも欲しない。
だが身を守ることは必要だから、周囲の情勢にはある程度気を配る必要がある。
こういう時代でもない限り、私は自由にものが言えなかったことだろう。私は感謝したい。
強いから群れないんじゃなくて、群れても安全が確保されず、群れなくても安全が脅かされない時代と環境であるから、群れない人間でいられるのだ。
あと、勘違いしないでほしいので言い添えておくが、支配者は羊にとって狼のような存在に思えるかもしれないが、実際には羊飼いであり、羊が恐れる狼は、羊飼いにとっても不都合なものであるために、全滅、あるいは激減してしまった。羊を取って食うような野蛮な人間は犯罪者に仕立て上げられ、羊飼い自身は成功者としてもてはやされがちなのが現代だ。
よく羊が羊飼いに憧れてそうなろうとするが、その目的が「より多くの餌(金)」を得るためなら、おそらくうまくいかないか、うまくいったとしても、また別の階級の羊になるだけだろう。
羊飼いの本質は、支配し、命令し、共存することだ。
場合によっては、その羊の一生を、幸せなものにしてやることも含まれる。
ところで、ひとりでいる人間というのは、フクロウのような、羊飼いにも羊にも害のないかわいらしい野性動物のようなものなのだ。
ホーホー。ちゃんと保護してくれホー。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?