苦悩と疲れやすさ

 私は疲れやすい。走っている途中にすぐにくたばってしまう

 何をやっていても、目に見える成果があげられない。
「たとえ成果をあげても、今と同じような苦痛とずっと付き合っていかなきゃいけないなら、このまま泥の中に沈んでいた方がマシだ」
 私の魂は、腐っていたのかもしれない。それは、もともと下等な魂だったのかもしれない。
 自分ひとりでは何もできないくせに、他の人と協力して何かを取り組むこともできない。

 私は自分が情けない。情けないけれど、その情けないと思う気持ちにも慣れてしまって、ただ小さな鈍痛が胸と頭を痛めつけるだけ。

 八方塞がりなんだ。こんないい環境を揃えてもらって、幸せもこんなに噛み締めて育ったのに、あとに残ったのは、何もできない役立たず。

 私は知っている。最近気が付いた。

 物事に集中するためには「考えないこと」が大事なのだ。考えることは、かなりの量のエネルギーを使う。私は、考えることに自分の力を使いすぎているせいで、文章も、絵も、運動も、毎日ほんの少しずつしか鍛えることができない。

 能力のある人たちは、自分がやるべきことだけを考えていて、他のことは全部眼中にない。だからこそ、彼らは優れているし、継続的に成果をあげることができる。
 私にはそう思えてならない。だから、私は私が何か社会的な成功を得るには、考えるのをやめるということを覚えなくてはならないのだ。言い方を変えれば「自動的に物事を深く考える習慣」をやめなくてはならないのだ。

 こんなことを言うのもなんだが、ものごとを深く考えるのは、楽しくて、幸せな習慣だ。どんな苦しいことがあっても、考え続ければ耐えることができる。代わりに、幸せも不幸も何も感じていないときを過ごすのが、とても苦痛になってしまう。
 人に言われたことに黙って従うことが、地獄のような苦痛になってしまう。

 私に足りないものが何なのか、やっと気が付いた。愚直さだ。

 考えろ。考える習慣を捨てず、愚直さを手に入れる方法を、考えろ。

 自分自身の方向をしっかり定めて、そこだけを深く掘り下げていく。やたらめったらに考えないという生き方を、ある程度習得しなくちゃいけない。

 大人たちは「年をとれば自然とそうなる」というが、私はそれを嘘だと思う。これは生来の気質なのだ。だからこそ、私は大人になる前に、意識的にそれを習得しなくてはならない。

 余計なことを余計なときに考えない方法。
 「自分が何も知らない」ということを忘れる方法。
 「自分が馬鹿だ」ということに気づかずにいられる方法。


 良心の呵責を感じる。内なる抵抗を感じる。私は、自分がそういう風に生きたいと思っていないことを知っている。

 意図して目を逸らすのは嫌いだ。元々意識の中に入ってこないという状態が理想的だ。でも私は……私の意識は、薄くぼんやりと広がってしまっていて、あまりにも柔らかく……

 苦しいんだ。

 私はいつも人生に悩んでいる。悩むのをやめることが、うまくできないし、そうしようとすること自体に、強い抵抗を感じるのだ。
「お前は悩み続けているべきだ」
 その命令が、私の魂には心地よく響くのだ。
「お前は苦悩しろ。苦悩した先にしか、お前の望むものはない」
 そんな道理はないはずなのに、私にはその言葉がひとつの真理であるかのように思えてしまう。
「苦悩の分だけ魂は光り輝く」
 私には分からない……分からないんだ。

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