読書日記02/10

 しばらく読書日記をつけようと思う。毎日は多分書かない。思考の整理と、私の中のちょっとした虚栄心のため。まぁ、私にだって「私、こんなに豊かな読書をしてるんですよぉいいでしょぉ?」と、浅ましくて恥ずかしい自慢をしたくなるときがあるんですよ。
 ええんやで。ちょっとくらい馬鹿になっても。

:::::::::୨୧::::::::::::::::::୨୧::::::::::::::::::୨୧:::::::::
(これ新しい区切りマーク。*←最近これお尻の穴にしか見えないから)

 そういうわけで今、筒井康隆のパプリカを読んでいる。


 米津玄師のあの曲を想起させる。多分関係はない。でも米津君、筒井康隆読んでるだろうからなぁ。もしかしたら何かあるかもね。

:::::::::୨୧::::::::::::::::::୨୧::::::::::::::::::୨୧:::::::::

 六十ページほど。息苦しい話だ。私はフロイトやユングの勉強をしていた時期があるから、不安神経症とか分裂病とか言われているものがどういうものなのか大まかに把握している。分裂病は、今統合失調症と呼ばれているアレだ。
 夢についての言及も、だいたい聞いたことのある話だったけれど、やはり、あまり気分のいいものではない。夢を追求する心理学は、あまりに人間を現実的にするのだが……おそらく現実的すぎる人間というのは、それはそれで奇妙で病的な状態にあるような気がするのだ。

 主人公の千葉敦子は、筒井康隆が好きそうな女性像だ。頭の悪い人間のことが嫌いで、不器用だが賢い男性に対して好意を抱く。古い「日本人的女性」ではないが、やはり「女性らしい女性」なのだ。いや「理性的女性」と言った方が正しいだろうか。
 いかにも頭が良くてユニークな男性が好む「理想的な女性像」なのだが……いないとは言い切れないと思う。
 私とこういう主人公の間にある種の共通点があるのは自覚するし、友達にはなれそうだと思うが、多分……お互いに奇妙な距離を感じてしまいそうだと思う。私はこういうタイプの女性と会ったことはないが、理系の研究職で男性に囲まれつつ実績を残している女性には、けっこうこういう感じの人がいるんじゃないかと思うのだ。

 時田という天才肌の同僚には、見覚えがある。親戚にまんまこういう人がいる。ブサイクで、だらしない体型をしていて、舌足らずで、子供っぽい部分もある。そしてそういう自分のことを客観的にみており、でも自覚したところで直せるわけじゃないと開き直っている。
 それでいて、他者に対する態度は非常に誠実で、常識的。変わっているけれどまともな人、優秀な男性という印象。

 私はこういう人が結構好きで、もう雰囲気的に無害なことが分かるし、こちらの理解力さえあれば会話も通じるので、喋っていて楽しい。性欲を抑えることもおそらく習慣化しているのだろう。全然そういう空気を出してくることもない。時々会って話したくなる、そういういい人。まぁここ半年くらい会ってないけど、その人のことを思い出した。

 記者会見のシーンは心底不快だった。この時代でもこういう感じなのかは知らないが、本当に、大衆の興味や理解力の低さ、ものごとを知ろうとする態度の軽薄さにはうんざりするし、フィクションで見るだけでも嫌になる。
 私はこういうシーンは絶対に書かないし、書けないと思う。筒井康隆は多分、こういう気分の悪い日常的な、文化的な何かを興味深いまなざしで見てフィクションとして昇華できる類の人間だったのだろう。素直に尊敬するし、そのたぐいまれな才能に嫉妬もする。
 彼は、悲惨なシーンや人間の醜さが出てくるシーンを、率直かつていねいに書く。そこには大衆趣味特有のあの下品さや遠慮のなさが「演出」はされているが、文章そのものからは滲んでこない。つまり、筒井自身には、そういう傾向がなく、あくまで「世の中のこと」として描いている。私はそういう、筒井の精神構造自体を好ましく思う。

 でも、私にはこういうシーンは書けない。私は世の中の醜さを直視して、物語の中に組み込み「必要なもの」として受け入れる能力がない。あぁいう空気感の中で、冷静に人々の行動原理や心理を分析し、物語にすることができない。
 フィクションとして読んでいる時でさえ、気持ち悪くなって「どうして人間というのは」と考えてしまう。

 性的なシーンについては、こう、なんというか、生々しさを感じる。リアルな息苦しさがある。こういうのはちょっと苦手だ。

 こう感じるのは私だけではないと思うのだが、三十前後~四十くらいの美しい女性の性的なシーンというのは、こう何というか、人を不安にさせる何かがある気がする。生殖本能と何らかの関係があるのかもしれない。
……そもそも、容姿端麗で知能も優れた女性が、三十前後までひとりも子供を産んでいないということが、ここ二百年より以前では世界的にほとんどありえないことだったはずなのだ。
 私はその、何というか……女性の本能のようなものの生々しさが、あまり好ましく思えない。そういうのが私自身の中にもあって、いつかそういう強い本能が私という人間の生き方やものの見方を決定的に変えてしまう可能性があるからなのか……それとも、女性の美しさは結局全てその性的な関係に目的を置いている空しいだけのものだということを感じてしまうからなのか。女性の美しさが衰え始める時期と、その性欲……なんだか、こう、胸に嫌なものを感じさせる。

 この物語における主人公の社会的な立場と、女としての本能みたいなものの対立が、妙な不協和を生み出しているのかもしれない。女としての幸せみたいなものと、人間としての名誉欲や責任感みたいなものの対立?
 ただ、大人同士の奇妙な自由恋愛みたいなものが苦手なだけなのかもしれない。

:::::::::୨୧::::::::::::::::::୨୧::::::::::::::::::୨୧:::::::::

 筒井の小説は、旅のラゴスと短編集をいくつか読んだことがある。時をかける少女の映画の再放送をテレビで見た覚えがあるが、内容は覚えていない。
 旅のラゴスは素晴らしいSF小説だった。いつかこういうものが書けるようになりたいと、当時中学生だった私は素直に感銘を受けたのを覚えている。小松左京の「復活の日」を小学生時代に読んだ時も衝撃を受けたし、図書館においてあった「世界SF名作選」みたいなものを片っ端から読んでいた時期もあって、私にとってSFはけっこう特別なジャンルだった。
 半年ほど前にオルダス・ハクスリーの「素晴らしい新世界」を読んだ時もすごいと思ったし……そういえば、影響を受けたからか、私も何本かSF書いてたな。
 昔書いたのは投稿してないけど、半年前に書いた「ティファレト」は投稿済み。
 私これ結構好きだから、ちょっと長いけど、読んで?

:::::::::୨୧::::::::::::::::::୨୧::::::::::::::::::୨୧:::::::::

 さて、パプリカの方だが、今日のところは読むのをやめておこうと思う。少し疲れた。ゆっくり読み進めようと思う。
 最近本を読み過ぎている。他人の文章を毎日長い時間かけて読んでいると、だんだん自分自身が何者であるのか分からなくなってきてしまう。
 それに、別の作者の本を続けて読むのも危険だ。私の中で、複数の考えが戦争をし始める。うまく心の調和がとれなくなって、体調を崩してしまう。

 でも途中で読むの抑えるのも疲れるし、この小説面白いから、続きが読みたくなってしまう。
 まだ前に呼んだ武者小路の友情もちゃんと消化しきれてないし、久々に児童文学読みたいと思って借りてきた「ガフールの勇者たち」も昨日一冊一気に読んじゃって、情報を処理しきる前に次の行っちゃってる感じする。こういうの経験上あんまりよくないんだよね……

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?