胡蝶の夢【ショートショート】

 人間になった夢を見るのは、これで二度目だった。その話を友達にしたら、つまらなそうな顔をした。そんなことより交尾だ、と。

 時々、精神が宿っているのは自分だけなのではないかと不安になる。蜜を吸う時の自分も、メスの周りを必死に飛び回って交尾の機会を得ようとしている時の自分も、なんだか本当の自分ではないような気がする。

 人間の夢を見ていた時も、似たようなことを考えていた。食べて、仕事をして、寝て。新しい趣味を探したり、流行を追ったり……人間の生活は、私たち蝶よりもはるかに複雑だけれど、退屈であるという点と、中身がないという点ではそう大して違いはないような気がする。それにしても、人間はなぜあれほど大きな脳を持っているのに、ものを考えることができないのだろう。実は、ものを考えるという機能は、脳ではなく、別のところに宿っているのではないだろうか? 私たちの魂というものは……

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 おそらく蝶が人間の夢を見ることはないだろう。私たち人間は、どうあがいても人間特有の巨大な脳によってものを思っている。蝶の夢を見られるのは人間だけ、と考える方が自然だ。
 もちろん、動物たちがどんな夢を見ているか確かめるすべがない以上、絶対にそうだとは言いきれないし、そもそも私たちが人間の体で何を調べたって、しょせんは人間の体で知覚したことだから、そこに絶対の確かさを置くこともできない。
 実のところ、私たちに魂があるかどうかという問題は、どうでもいいことなのだ。どちらかといえば、この体を使ってどのように生きるか、という方が大事だ。
 たとえ中身がなく、空しいものだとしても、しかし私たちがこの体である以上は、その体の望むようにしなくてはならない。精一杯、最後まで足掻かないといけない。
 善であっても悪であっても構わないが、誠実さは失ってはならない。この肉体に相応しい自分でなくてはならない。
「それもお前の肉体が考えたことだろう? それに従わなくてはならない道理がどこにある?」
 だからこそ、なのだ。私たちがこの肉体であるならば、この肉体の考えたことに従わなくてはならない。私たちは複雑な肉体であるから、複雑な人生を歩む。自殺するのは肯定されるが、薬や酒、性に溺れて単純な存在として生きるのは、許されない。それは、私たちの肉体に対する不誠実であるからだ。肉体に対する冒涜であるからだ。

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 蝶の生は単純なものだ、と思う。蜘蛛の巣に引っかかって死んでいる友達を見た時、そう思った。気をつけないといけない、と思った。
 幼虫だった時間の方が長かったが、その時のことはもう忘れてしまった。その時の経験は、空を飛べるようになったらもう役に立たないから。
 羽化できなかった友達のことも、よく思い出せない。同情なんてしてる暇はないから。食事と、交尾。寿命が尽きるか、あるいは天敵に捕食されるその日まで、私たちは食事と交尾を繰り返す。そのためだけに、生きている。
 人間みたいに、希望なんてものは必要としない。ただはっきりと、いつか来る死を待ち望んでいる。あの蜘蛛に消化されつつある友達も、きっとその気になればあれを躱すくらいわけなかったはずだ。ただ、もうめんどくさくなって、疲れてしまったから……
 そう思った瞬間、大きな鳥の影で世界が一瞬暗くなった。

 それからのことはよく覚えていない。助かった、という安堵だけが私の小さな脳を支配していた。結局危険が迫ってくると、ものを考えることなんてできず、ただ肉体の安全のために集中する。それはきっと人間も同じで……

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 朝の散歩の途中。眠っている蝶を見かけた。もし私がこいつだったとして、こいつを殺したらどうなるのだろう。私は私を殺したことになるのだろうか。
 そんなことはない。私は今までたくさん昆虫を殺してきたが、それで私自身が死ぬことはなかった。でも、夢の中で私が死んだ回数と、私が人間として昆虫を殺した回数、どっちが多いかと言われたら、正直分からない。
 今更なんだという話だが、無用な殺生は好まない。昆虫殺しは、幼児のころに卒業し、今はもう、どんな生き物も、死んでいるところなんて見たくない。心が弱くなったのか、それとも成長して豊かになったのかは、分からない。
 こういうことも、くだらないことだとは思えなくなったのだ。目の前の昆虫に対して、自分がどのように接するかということすら、この世界や、自分自身という存在を決める上で、ものすごく重要なことなのではないかと思えてしまうのだ。
 それが正しいかどうかなんてどうでもいい。ただ、それが私の誠実さであり、肉体が望んでいることなのだ。

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 目を覚ましたとき、私が休んでいた塀によりかかっている人間がいて、私を覗き込んでいた。死んだふりをした方がいいかと悩んだが、気にせず飛び立つことにした。
 空から人間の方を振り返ると、笑ってこちらを見ていた。
 彼女は何を思っているのだろうか。それとも、あれもまた、私自身なのだろうか。
 心の中に、不思議な気持ちが芽生えるのを感じた。
 もし私が人間なら、この気持ちを言葉にしないわけにはいかないことだろう。
 あぁそうだ。私はこう思ったのだ。
「彼女もまた、私であるべきなのだ」

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