満足って何 楽しさって何

 前の土日に、古い(中学時代の)友達が比較的新しい対人系のゲームを誘ってくれて、それが楽しくて、今日はほとんど一日中やっていた。自分がみるみる上達していくのが分かるし、友達も褒めてくれるし、試合には勝てるし、楽しい、と思う。
 積極的にネットで色んな情報調べるし、実際に色々試してみてあぁでもこうでもないとやるのも楽しい。合間合間でその友達と関係ない色々なことを喋れるのもいい。

 でも思うのだ。この楽しさがずっと続くわけではないって。それだけは分かってる。飽きるまでのタイムリミットは刻一刻と近づいてきているし、それは恐れれば恐れるほど厄介なものになるから、飽きたら飽きたですぐに離れるようにしないといけない。

 楽しさと空しさは、対になっているような気がしている。大きな楽しさを感じても、いつかは同じことをやってもあまり感じられなくなってしまう。慣れ、というより、その楽しさは自分自身の感覚に依存している都合上、変化してしまうのは当たり前なのだ。昨日食べたパンと今日食べたパンは、それが同じ製品であったとしても、それを味わう私の舌が変わっているから、違う味がするのだ。

 私がどれだけ瞬間的に楽しくなったとしても、その楽しさはそこにしかなく、振り返ってみて「楽しかったなぁ」と思っても、その時感じるのはぼんやりとした空しさなのだ。

 娯楽に満足すればするほど、深く悩む。人生って何なのだろう、と。遊んでいるだけで終わる人生は、あまりに空しいのではないのか、と。
 十分に遊ぶ時間がなかったり、遊びたくても遊べないような生活をしていると、きっとそういう風に悩むこともないのだと思う。
「遊ぶことは楽しいことだ」
「楽しいことはいいことだ」
 それだけで十分なのだと思う。

 でも、好きなだけ遊んで、過剰なほど楽しんで、その先にいる自分のことを見つめると、私はやはり空しくなる。遊ぶことや楽しむことは、人生における前提であり、最低ラインであり、結局その先の空しさにこそ、人生の本質があるのではないか、と思うのだ。その、用意された空白を何で埋めるか、ということに、私が生きている意味であるのではないかと思うのだ。

 欲望が全て満たされた先にあるもの。それは「幸福」と呼ばれることはあるけれど、私はやはりそれは「空しさ」と呼んだ方が正しいと思う。


 空しくないとできないことがある。この世でもっとも価値あるものや中身のあるものは、全てその「空しさ」から生まれてきたのではないかと思うのだ。
 空しい、空しい、空しい。だから、空しくないことをしよう。空しくないものを作ろう。空しくない人間であろう!

 そういう強い衝動が、人を新しくするのではないかと思うのだ。人に、偉大なる一歩を踏み出させるのではないかと思うのだ。

 そう言いつつ、空しさを抱えた自分は何もしていないし、何もできていない。人は自分を肯定したがる生き物である。だから結局私が空しさを感じることを過剰に賞賛しようとするのは、結局はそういうことなのかもしれない。

 楽しさって何なのだろう、とずっと考えている。ずっと楽しんでいられる人生は愉快だろうか。それを、私は望んでいるのだろうか?

 いやきっとそうではない。ずっと笑っている自分を想像するのは気分が悪い。ずっと何かを達成し続けている自分を想像するのは気分が悪い。
 ずっと変わらず、同じようでいる自分は、どうしようもなく、気分が悪い!

 空しさだってそうだ。結局私は、自分という存在が単純であることが嫌なのだ。複雑で、捉えどころがなくて、簡単には解せない自分でありたい。難しい自分でありたいのだ、私は。

 なぜそう思うのかは分からない。

 ただ、私がどれだけ単純な快楽や欲望に溺れていたとしても、それが有限である限り、それは私の一部として、私の複雑性の一部として、立派に働いている。あらゆる私の行動は、私を構成する要素として機能していているから、それぞれが単純であっても複雑であっても構わないのだ。たくさんある、ということが重要なのだ。

 私という一個人の中に、数えきれないほど多様なものが含まれている、ということが大事なのだ。

 きっとそれは、人類そのものについても当然同じことが言えると思う。私は私個人として多様であるし、人類もまた、その人類の一員たる人々は、それぞれが多様なものでなくてはならない、と思う。
 「そうであってもいい」ではなく「そうでなくてはならない」と強く思うのだ。多様性に対して、許容や受容ではなく、希望や要請をしていたい。

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