フィクションは精神的な準備として役割を果たす

 私たちはなぜ新しい、まだ見たこともない虚構を好むのだろうか。使い古されたネタに飽きて、見たことのないものに触れた時、一番の喜びを感じるのだろうか。
 きっとそれは、学習を伴うからだ。新しいことを知るということは、それだけ、多くのことに対応できるようになったという万能感を人に抱かせる。

 物語を読むということができている人ならば、そこに描かれた人間模様に近いものが目の前で繰り広げられたとき、その物語のことを想起することができるはずだ。私には、そういう経験がたびたびある。
 あらゆる物語が、作者の経験から抽出、再構成されたものならば、それができて当然なのだ。一度起こったことは、二度目がどこででも起こる。誰かが見て感じたことを自分のものとして受け取ることができたなら、再びそれが自分の身に起きた時、外から見たら「一回目」のように見えるが、内的には、すでに練習を済ませている、と言える。「本番としては一回目」という言い方が正しい。

 なぜどの民族の中にも伝承があるのか。物語があるのか。その土地に根差した、残酷で鮮やかな物語が語り継がれて来たのか。私たちは、思っている以上に物語に操られているし、それは、それを作った人の願いでもある。
 同じ過ちを犯さぬために。あるいは、同じ成功を繰り返すために。

 特別な物語もある。それは、現実では起こり得ないことを、ひとつの願いとして、飛翔として、形になったものだ。未来への約束を告げるものだ。現実の中に、直接切り込んでいくものだ。それは聖なる書として何千年の時を超えて、まだ人々の心を縛っている。死後の世界、という虚構! 絶対にありえないこと。起こりえないこと。証明など必要なく、そんなものはあってはならないのだ。説明も不必要であるし、考えることも無意味だ。だからこそ、それは大きな価値を持ち、意味のあるものとして、これまでずっと愛されて来たし、この先もずっと愛されていく。

 それは準備する必要のないものを、誰かの意志によって、準備し続けるものに変わった証拠なのだ。私たちが単なる学習性動物から、願いの生き物に変わった瞬間でもある。
 私たちは、そこに「ない」ものを追い求めた。虚構によって準備する、という人間の性質を利用して、人間の精神構造そのものを、あるべき姿に近づけるため、捻じ曲げた。世界が神聖になったのだ。私たちは、神聖であるということを理解したのだ。

 私たちには共感性が備わっている。他者と己を対等なもの、同質なものとして捉え、誰かの痛みを己の痛みとして認識し、誰かの学びを、己の学びとして取り入れる。物語は、それにもっとも適した形式なのだ。私たちは、生物として、より多くの状況に対応できるようになるために、多くの知識と物語を己の狭い殻の中に押し込んで生きている。

 しょせん、フィクションはそれまで現実の付属物だった。現実のための、フィクションだった。それがいつの日か、人々の心を変えるためのものに変わった。学習という機能に付け込んで、起こり得ない危機を描くことによって、人々の生活と未来を捻じ曲げた。その先にあったのは、運命の悪戯か、なぜか、現実への理解だった。虚構の、虚構性の暴露が行われた。それまで起こり得なかったことが、起こった。誰かの意思に基づいて? 誰かの意思への反対に基づいて。
 たくさんの実験が行われた。誤りは誤りであると断ぜられた。嘘は嘘であると、虚構は虚構であると、別の領域に葬られた。宗教、という領域だ。元々宗教は、人生そのものだった。私たちの世界観そのものであり、誤りや嘘であることなどありえなかった。そもそも、誤りや嘘という考え方自体が、今の私たちのようなソレではなかった。虚構というものに対する意識が、異なっていた。
 いや、そもそも私たちの、意識というもの自体が、もうすでに変化した結果としてここにあるのだ。誰かが、こう変化すべしと願った通りに、私たちの意思や認識は捻じ曲げられ、ここに在る。

 精神としてここに在ること。目に見えない、時間を含んだ「はたらき」として、私たちがここに在ること。
 フィクションは、今でも準備としての役割が大きい。準備不要であるにもかかわらず、その機能を利用し、悪い言い方をすれば、エクスプロイトし、誰かの喜びとしての価値に変換することで自らの生活の糧にしようとする今のフィクションの世界においても、そのような役割は依然として存在する。リアリティが求められる理由も、そこにある。人間は本能的に、無意識的に「いつか役に立つ」フィクションを求めているのだ。当然そこも、うまく突けば……己の生活や、欲望を満たすのに、役立つ。

 フィクションがビジネスの道具としての立場を確立してから長い時が経ったが、それでもフィクションの本質は変わらない。最も優れたフィクションは、あまたある名誉や金に囚われた人々が生み出す種々雑多なもの中でも輝き続け、人々に読まれ続けている。それが、役に立つからなのだ。それが、明確な目的を持っているからなのだ。己の生活のための何かではなく、それを読む人の生活のための何かであるからなのだ。

 こういうことを説明するのってすごく難しいよね。ちゃんと伝わるように書けているっていう自信はないんだけど、まぁ練習として、ね。
 というか私の中でもこの考えってちゃんと……整理されてなくて、ひとつの意見として何というか、ブレッブレだから、書くことで少しでもこの考えが鮮明になればなぁって思って。

 でもさ、名作と、そうじゃない作品の違いってやっぱりそこにあるんじゃないかと思うんだ。名作っていうのは、娯楽作品よりも、民間伝承に近いものなんじゃないかと思って。人と人の精神を、時代を超えて結びつかせる、願いの結晶なんじゃないかと思って。

 あと、哲学書とかは、どちらかと言えば人の理性にはたらきかけるもので、小説とかは、共感性にはたらきかけるものだよね。二分できるものじゃないし、共感性の方に強く感じさせる哲学書もあれば、理性的にしか読めないような小説もあるから、アレだけどね。
 いずれにしろ、己の利益のためのはたらきかけであるなら、まさに人に備わった機能を悪用してるってことだから、脆弱性への攻撃、エクスプロイトって感じだよね。いやまぁ、ちょっと言い方悪すぎる気がするけど。もうすでにひとつの文化になっちゃってるし、そういう仕組みのおかげでうまく回ってる部分もあるから、そうだね。まぁ、あくまで、歴史の流れとして、そういう感じだよねっていう。

 柔らかい言葉で同じことを言い直すのって意外と説明する上で有効かもしれないなぁって思ったけど、どうなんだろう。私は自分の頭回すときは、最初に書いたみたいな感じでぐるぐるやってること多いんだけど、人と話すときは今私が書いてるみたいな、柔らかくて、のんびりしたペースでモノを考えるし、説明もするんだよね。
 なんか別の表現になっちゃった気がする。フィクションというものが現実とどのような関係にあるのか説明したかったんだけど、これじゃどっちかっていうと、私という人間の頭の中の説明になってる気がする。いやどうだろうね。まぁ今回は、かなり説明しづらいことを説明しようと結構無理して書いたから、私の頭の中が比較的そのままになっているというか、そもそも今日はちょっと体調が変というか、精神的に何か変なモードになってるから……

 フィクション。人々に、複雑な観念を植え付ける最良の手段。理性と共感性、どちらがより深く刻まれるかは分からないけれど、でもきっとそれは、両方の側から押しつぶすようにしていくのが、一番いい。世界宗教はそのどれも、物語だけでなく理性的説明を従えて広まったという実例もある。
 やっぱり人に何かを伝えたいなら、何かを広めたいなら……

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