人間に動物と同じだけの権利を与えてやろうじゃないか

 動物にあって人間にはない権利とは何であろうか。それは叫ぶ権利、噛みつく権利、その生態に基づく、自然的な生活を送ってもよい権利だ。

 それはもともと、動物が自然的に有していたもの……というよりも、むしろ権利なき世界観における権利、つまり彼ら自身の趣味に基づくものであった。
 「我々はこうありたい」あるいは「我々はこうあるべきだ」の先に、あらゆる生物がある。ウイルスも、昆虫も、爬虫類も哺乳類も、彼らという存在は「観念の自己肯定」でもある。彼らは彼ら、あるいは何者かが定めた「こうあるべし」に従っている。また別の見方をして、もしそんなものはないのだとしたら、彼らは、偶然と法則が定めた「すでにこうである」に従っている。
 そして「権利」を与える生き物である人間は、人間にもっとも多くの権利を認めると同時に、もっとも多くの自然的な権利を禁止した。
(全ての権利は自然界には存在すると同時に、存在しない。権利を権利たらしめるのは実行力であり、自然はあらゆる実行力を有していると同時に、それを禁止することがあり得ないので、結局のところ人間の与える「権利」とは「自然的権利の一部禁止」であり、同時に「自然的権利の一部許可」でもある)

 人間にとって「権利」と「抑圧」は対になったものである。自然は「抑圧する権利」を全ての生物に対して与えている。一切の「抑圧を与える権利」や「抑圧から逃れる権利」を、全ての生物に与えている。
 対して人間は、そのような自然に敵意の眼差しを向け、ある動物には「抑圧から逃れる権利」を奪い、ある動物には「抑圧を与える権利」を与えた。つまり人間は、自らが自然になろうとし、しかもそれを成功させた。人間の世界は、もはや自然界とは別の名前の自然界と化した。そこには人間がルールであり、人間が「よし」と言ったものがよくなり、人間が「ダメだ」と言ったものが、ダメになる。
 ところで「人間の根幹に存在する、あらかじめ定まった『善さ』」など存在するのだろうか?
 もし存在するなら、それを与えたものがいなくてはならない。神や仏の登場だ。
 だが残念ながら、それは嘘だった。神がいるという推論が間違っていたのではなく、まず「もし『善』が存在するなら」というIFが不可能だったのだ。
 つまり人間には、すでに定められた運命もなければ、善さもない。そこにあるのは、自然界が定めた規則なき規則だけ。物理法則に善良さは含まれていない。

 なるほど、だとすると人間が定めたあらゆる「権利」は、人類という種が、人類という種を愛するがゆえの、利己的な欲求であったと言える。
 人類は己にとって必要なものを守り、維持するために「権利」という考え方を必要とした。
 「我々は、特別な存在でなくてはならない」
 それが権利の考え方であり、それは元々、一部の人間にのみ与えられた「特権」としての機能であった。
 他の人間に対する優越であり、論理による他者支配の肯定であった。

 では人権とは何か。これは、自然に対する全人類的な支配の肯定である。
 つまり、生き物というのは普通、例外なく貧しければ死ぬし、生きていくのに適していなければ、死んでいく。
 自然環境化におけるルールとは、ルールの不在であり、あらゆる支配とあらゆる被支配を肯定するものである。
 人間が、己が望んでいないのにも関わらず死んだり、貧しくなったり、悲惨な目に遭ったりする。もし自然が、人間をそんな目に遭わせるとしたら? 人間が、人間をそんな目に遭わせるとしたら?
 逆に問おう。もし権利を持った人間が、人間がそのような目に遭うことを目にしたり、耳にしたりすることにすら、不快感を覚える生き物であり、そういった現実を否認し、自らの権利である「自然を作り替える能力」を行使するとしたら、それを正当化するためには、どのような「権利」が必要だろうか?

 人権とはすなわち、全ての人間に対して、自然に対する優越を認める、という意味である。それは同時に、全ての人間は自然的であってはならない、という権利の禁止である。
 人権とは「何人たりともその命を他者から奪われてはならない」という人道的なものであると同時に「何人たりとも、他の人間の命を奪ってはならない」という、非人間的であると同時に、非自然的な命令をも有している。

 だが人間は、結局のところ自然に支配されており、当然のことながら、人権とは人間にしか適用されないので、非人間的なものを用意することによって、人間が人間を支配することを正当化するようになった。すなわちそれが、国家であったり、宗教であったり、非人間的な権利を有する、人間の集団からなる無名の怪物であった。
 国家は仕組みである。国民はその動力である。では、権利を有し、実行しているのは何か? 国家ではない。国家は法であり仕組みであるからだ。ある個人――あるいはその集団――が作り出した、芸術的作品なのだから。
 国民は国家だろうか。それは嘘だ。国民は全て法律に支配されており、その枠組みの中で自分自身のために生きている。国民は国家ではない。
 では国民が国家を動かしているのであろうか。否。国民は、国家を動かそうと欲するが、実際に動かしているのは別の何かである。その何かとは何か。名前がないのだ。まだ名前が付けられていないからなのか。あるいはそこに何かがあるということを感じられる人間がまだ少ないからなのか。

 それは人間の幻想が生み出した「何か」である。いや、幻想そのものであると言ってもいい。だがその「何か」は、超人間的な権利を有している。人間が己に禁止した、権利という名のもと禁止した全ての自然的権利を、その「何か」は有している。
 その依り代となることが多かったのが、神であり、国家であり、独裁者であった。彼らは単なるその表面であり、それそのものではない。

 余談であるが、たとえばあのよくできた最近のアニメ「PSYCHO-PASS」は、もし複雑な機械「できのいい単独者」の集団がその超人間的な権利を有したとしたら、というIFを面白おかしく描いた作品だ。私は個人的に、これやガンダム、デスノートなどは、この現代日本社会の程度の高さを如実に示す典型例だと思っている。こういうものを作り出せると同時に、そこに含まれる多少複雑なものを大衆が許容できるという事実が、この社会全体の知的なレベルの高さを示している。
 それに、あぁいう質がいいフィクションは、現実に少なからぬ思想的な影響を及ぼす。多くの人に、長い時間楽しまれ続ければ、その作品の精神や認識が、現実を見る上で、対比的にはたらく。それを口にする人間がいなくても、それを想起した時点で、その作品は現実に影響している。
 たとえば手塚治虫の漫画が、どれだけ多くの優秀な若者を科学や医学に導いたか想像してみるといい。フィクションは、現実的で常識的な人間が思っている以上に、現実というものに強く影響する。


 ともあれ、己自身に禁止した能力を行使する存在を、必ず人間は必要とする。なぜならば、それが生物としての宿命であるからだ。

 結局のところ「神」もまた、人間の人間性を示している。人間が、他者のために放棄した己の権利――自ら追い求めることのできない権利――を何者かに許すことを必要としたとき、人間はそこに「神」を作り出す。何よりも人間的であるにもかかわらず、その定義が人間でないことを示すような存在を、人間は必ず必要とするのだ。
 それはニーチェにとっての「超人」でもある。私たちが人間に対して何らかの権利、抑圧を要求するとき、必ず例外的な何かを必要とする。その権利の喪失に対する、報酬としての「信仰」を必要とする。

 「人権」という言葉は比較的新しいものだが、そのような感覚自体は、何千年、いや、何万年も前から存在すると考えていい。人権意識とは、言い換えれば他者を守りたいという意識なのだ。他者から守られていたいという意識なのだ。

 では我々が、そのような生き方を超えるにはどうすればいいだろうか。言葉だけなら簡単な話だ。人間に対して、神や仏に対するのと同じだけの権利を与えればいい。一度奪い取った権利を、そっくりそのまま帰してやるといい。
 そしてもう一度、私たちは戦うのだ。己の権利を侵害するものを、徹底的に、木っ端みじんに、叩き潰し、絶滅させればいい。
 そしてもし我々が絶滅したり、あるいは敗北したとしても、人間からそのように追い込まれた動物たちがそうしたように、粛々と己の運命を受け入れればいい。

 人間というものは、神のように超法規的に生きていいし、超法規的に殺されてもいい。そのような精神性で生きるようになってはじめて、人間は自由になり、信仰や他者への不満、恐怖や嫌悪感から逃れて生きることができるようになる。

 はっきり言って「全ての人間が同じ『善』を求めるべきである」という考え方を持っていては、私の言っていることの正当性が理解できないと思う。(彼らの道徳的普遍性に関する全ての意見に対する反論は「一個の利己主義的人間である君は、なぜ自分があらゆる普遍的な正しいことや正しくないことを判断できると考えているんだ? それは、私には、君自身の無意識的な利己的主張に聞こえる。君にとってその主張が利益になるから、君がそう主張しているように聞こえる。たとえ君がそれに無自覚であったとしても、だ。私は、君の言っていることが普遍的な正しさを有しているとは、到底思えない」で十分である)
 ともあれ、もし私と全ての人間が同じ考え方で生きていれば、世界は自然状態に逆戻りし、棍棒で殴り合うことになってしまう。
 もちろん、全ての人間が私ほど賢く、人間を愛している存在であれば、そんなことにはならないが、実際の人間は非常に野蛮であり、ほとんど野性的である。だから、そのような野生児たちが私の言うことを信じ、従った場合、世界は原始時代に巻き戻る。
 だが、本当のところ「全ての人間が同じ『善』など、求めていてはならない」のである。動物たちが、異なる『善』を持っているように、つまり草食動物は動物ではなく草を好み、それを食べることを善とし、肉食動物が、草ではなく虫や草食動物などを捕らえ、食べることを善としているように、善というのは、多種多様でなくてはならないのだ。

 人間が、超法規的に、つまり己の「自然」に従って生きるためには、それに従えない人間――法律に反したことが行えず、神や国家などに、自分の放棄した権利を与えている人間――が、その社会における大多数であることを前提とする。
 そういう人間たちが「法律」や「人権」などを守ってくれていない限り、我々は自然環境下において、まず「法律」や「人権」を作り出す必要があるし、それらを自ら信じ、守るよう努めなくてはならなくなる。それは、そういう倫理が超自然的に、超動物的に存在するからではなく、それが「知性という動物」の習性であるからである。知性は安全や支配を求める。安全や支配のために、自らの自然的な権利を放棄し、他の自然的な権利を抑圧する。
 あの者に権利を与え、ある者から権利を奪う。そのような取捨選択の本能は、自然が全ての生物に与えた正当な権利であり、私たちは、どうあがいてもまず、人間に権利を与え、それ以外のものから権利を奪うしかない。なぜならば、私たちが人間であるからだ。

 そのうえで、そのような「法律」や「人権」が、自然の道理である「利己主義」より強くなった瞬間に、私たちの自然的な権利である「利己主義」が、はじめて許され、強力なものになるのである。

 「法律」や「人権」は、他の人間が「私たち」を害することがないようにと、そのように考えて作られた。私たちは、自らの権利を自然的に与えられていたが、同時に全ての権利は自然的に奪われうるものであることが、許容できなかった。だからそのために、自らの権利を一部放棄した。その権利の名は「人から権利を奪う権利」。自然界にある全てのものは、この権利を持っている。
 この権利を放棄しようと試みると同時に、この権利をどの生き物よりも大胆かつ強力に行使したのは、人間であった。
 人間はその後「人間に対してこの権利を行使するのをやめよう」と考えた。それが「人権」の正体だ。

 だが人間は、あらゆるものを支配しようと欲する。あらゆる権利を行使しようと欲する。それが生物の欲求であり、もしそれが理性的に禁止された場合、無意識的に抜け道を探そうとする。それが「神」や「国家」であった。

 専門の学者ですら、この時代の人々の多くは、こういうことがよく分かっていないことが多い。全ての道徳は、全ての聖なる書物は、このような試みなのだ。
 彼らはそのような「他の試み」に囚われており、その枠組みの中で考え、呼吸している。それは決して私たちにとって都合の悪いことではなく、それどころか、私たちの存在の前提条件として、そうでなくてはならないことを、繰り返しになるがちゃんと言っておこう。

 私は君たちに何を提案しようとしているのか。何を勧めようとしているのか。
 あらゆる己の「権利」を愛し、君たちは理性的に、誠実に、抜け道を探すべきだということだ。

 法律が人間を支配している時代において、私たちは、法律内のことなら、はっきり言おう、何をやってもいいし、何をやっても許されるべきなのだ。
 決して他者の説く「道徳」とか「マナー」とかに、心を縛られることのないようにしよう。それは君たちの権利に対する侵害であり、君たちはそれに対して敵意を持ち、賢く、もっといい「道徳」や「マナー」を、己自身に課していいのだ。
 人間は全て、自ら「道徳」や「マナー」を作り出す権利を有している。それが、自然的な人間の在り方であり、同時に、人間的人間の在り方だ。

 言い換えれば、私たち「人間的人間」は、他者の「個人的道徳」や「個人的マナー」に口出しをしないことを意味する。私は、より高次の道徳、より高次のマナーを説いているのだ。

 私たちはずっと、道徳やマナーという名前を使って、他者の自然的傾向を抑圧してきた。そしてそれを「人権」と呼ぶことも多かった。
 だからこそ、私たち、他の人間と異なる人間、個人的な道徳やマナーというものが本能にまで染みついた人間は、もはやそのような拘束を受ける必要を有していないのだ。

 あらゆる、最低限の抑圧は、国家なり宗教なりがやってくれている。それは、私たち一個人がなすべきことではない。私たちは、どのような犯罪者に対しても、道徳違反者に対しても、動物と同じだけの権利を認め、彼らに対して敵意を抱くのをやめよう。気の毒だと思うことも、法律によって裁かれることに関して以外は、やめることにしよう。
 その犯罪が、彼らにとっての幸せであるならば「君たちはそれでいいのだ」と認めてやることにしよう。彼らが私たちを害する前に、彼らは国家が始末する。それで十分なのだ。

 私たちは他に「善」や「悪」を押し付けるのをやめると同時に、私たちもまた、私たち自身に、他から押し付けられた「善」や「悪」に、抑圧されているのはもうやめよう。
 私たちは法律を理解しているから、私たちは、自分たちにとって何がまずいことであり、何が都合のいいことであるかをよく分かっている。
 ならば、もはや私たちは、自分たちの権利を自由に行使していいのだ。

 そしてそのためには、私たちは、あらゆる他の権利に対して、口をつぐまなくてはならない。他を咎めることをやめ、逆に愛するようにならなくてはならない。
 私たちはテロリズムを愛することができるようになるだろうか? だがいつか、それもまた必要になるのだ。私たち高次の個人が、真の意味でもうひとつ豊かで自由な存在になるために、テロを起こすしかないほどに追い詰められた人間や、やむにやまれぬテロへの欲求を持った人間をも、私たちと同格の人間として、尊重できるようにならなくてはならない。

 そうでなくては、全てが嘘になり、人間は動物以下であり続ける。
 人間が人間にとって、動物以下であることが都合のよいことであるならば、人間は躊躇なく、そのもっとも反自然的で残酷なことを成し遂げてしまう。それほどまでに人間は多くの権利を自然から与えられてしまっているのだ。そしてそれが「人間の動物性」なのだ。

 私たち人間は人間にできること全てを、個人的な意味で、愛し、認め、尊重しなくてはならない。そして、それを咎めたり、禁止したり、罰したりするのは、私たち以外の者に任せ、そこで起こることを、己とは関係のない無名の怪物がやったこととして取り扱わなくてはならない。

 そしてこのような人間であるためには、一切の「罰への欲求」「他者への不満」を捨てなくてはならない。いや、その言い方は間違っている。そういうものを捨てる必要もなく、元々そんなものはない人間として、生きなくてはならない。
 生きなくてはならない、ですらなく、気づいたらそのように生きている、というのが一番いい。

 そしてそのような人間は当然のことながら、絶対的少数者であると同時に、人間社会における特権者でもある。

 私はずっと、特権の話をしているのだ。

 この特権とは何か。
 「人間を動物と同様に、自然なものとして愛する権利」だ。

 これは、既存の人間から離れた人間しか得られない権利であると同時に、人間ではない、知性という自然が私たちに送った新しい権利だ。

 人間は、私たちにとって動物なのである。ならば私たちは、私たちの動物愛護的本能に基づいて、人間を愛し、守らなくてはならない。その権利を尊重しなくてはならない。

 そうしてはじめて私たち特権的な人間は、その特権を行使することによって、その特権によって生じていた私たち自身への抑圧『私たちは動物的であってはならない』が、正常に機能し、大きな病気が大きな健康に変わる。

 私たち自身の動物性である「人間的人間性」は、私たちが定めていいものであり、彼らの持っている「動物的人間性」あるいは「人間的動物性」とは別個のものであることを、私たちはついに認めるに至る。

 彼ら「人間」及び、その人間性と人権とを、私たち自身の人間性と人権とは異なる動物的なものと見做すことによって、やっと始まるのだ。私たち人間自身の、より優れた美しき動物的時代、動物的繁栄、が。
 そしてそれを人間的時代、人間的繁栄と呼ぼう。これまでの人間的時代、人間的繁栄を、半人間的時代、半人間的繁栄と呼んでも構わないほどに、私たちは、新しい人間的時代、人間的繁栄を作り出し、謳歌しよう。

 希望は、確信と共にあって初めて力となる。


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